永禄8(1565)年、伊達家の当主・輝宗(北大路欣也)のもとに、伊達家とならぶ奥羽の名門であり、伊達の宿敵ともいえる山形の最上家から義姫(岩下志麻)が、政略結婚で嫁いできた。永禄10(1567)年、輝宗に嫡男が誕生し、「梵天丸(ぼんてんまる)」と命名される。梵天丸は、5歳のとき、重い病にかかり、危篤状態におちいるが、命だけはとりとめた。しかし、この病が原因で梵天丸は、右眼を失明してしまう。
伊達輝宗(北大路欣也)は、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ・大滝秀治)を梵天丸(ぼんてんまる)の学問の師として招く。ある日、梵天丸は養育係の喜多(竹下景子)と訪れた寺で「不動明王はなぜ怖い顔をしているのか」と尋ねる。虎哉は、不動明王は外見と異なり、慈悲深い、やさしい仏であると話す。それを聞いた梵天丸は「梵天丸もかくありたい。人の上に立つ者は、不動明王のようでなくてはならぬ」と肝に銘じるのだった
梵天丸(ぼんてんまる・藤間遼太)は、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ・大滝秀治)の元で厳しく育てられていた。天正2(1574)年、最上家で内乱が起こり、お東の方(岩下志麻)は身内の争いに心を痛めていた。一方、伊達輝宗(北大路欣也)は、勢力を広げる織田信長に友好関係を求め、布施定時(萩原流行)を遣わして名馬や鷹(たか)を贈っていた。この頃、伊達家では喜多(竹下景子)を輝宗の側室にしようという動きが…。
天正4(1576)年、梵天丸(藤間遼太)の弟・竺丸(じくまる)が誕生。お東の方(岩下志麻)は、輝宗(北大路欣也)に竺丸を自分の乳で育てたいと言い、ちょう愛する。天正5(1577)年、梵天丸の元服の儀が執り行われ、名を「藤次郎政宗」と改める。政宗は、母から水晶の数珠を贈られ、数珠を母だと思い、大切にすることを誓うのだった。これを期に、虎哉宗乙(大滝秀治)は、政宗に今までより一層厳しい教えを施し始める
天正7(1579)年11月、三春の城主・田村清顕(きよあき)の息女・愛(めご)姫(後藤久美子)が藤次郎(嶋英二)のもとに嫁いできた。藤次郎は数え年13歳、愛姫は11歳。愛姫の守り役となった喜多(竹下景子)は、愛姫を伊達家の水になじませようと心を砕くが、田村家から同行した侍女が、喜多が姫へ関わるのを拒み続ける。藤次郎は、愛姫に「母上は、強いことをおっしゃることもあるが、心根はやさしい方じゃ」と諭す。
田村家の侍女・村岡(浅利香津代)が「藤次郎(嶋英二)は、凡愚にて主君の器にあらず…」と記した密書を三春に向けて放った。密書を奪還した喜多(竹下景子)が村岡らを問い詰めると突然喜多に襲いかかり、身をかわした喜多は逆に村岡たちを斬り捨てる。喜多は、藤次郎の名誉のため、密書のことを伏せたまま村岡たちを殺した責任をかぶろうとするが、真実を知った輝宗(北大路欣也)は、喜多の忠義ぶりに大いに感心するのだった。
伊達家の守護神に戦勝祈願をし相馬に向かった藤次郎(嶋英二)は、小十郎(西郷輝彦)らとともに戦うが、初陣首を狙われかねない無謀な戦いぶりだった。輝宗(北大路欣也)から「大将は、最後まで生きのびることが務め。時に臆病でなくてはならぬ」と諭されてしまう。一か月後、米沢へ戻った藤次郎は、お東の方(岩下志麻)からも、「このままでは、家臣から大将の器ではないと言われかねない」と手厳しく戒められるのだった。
本能寺の変に衝撃を受けた藤次郎(嶋英二→渡辺謙)は、行く行くは天下を取ろうと決意。そのころ、譜代の家臣が、お東の方(岩下志麻)と結びつき、不穏な動きをみせる。輝宗(北大路欣也)がお東の方を問い詰めると「藤次郎は、家臣からの評判が悪く、愛姫(後藤久美子→桜田淳子)は懐妊しないので、竺丸(山ノ井隆信)に期待する者がいる」と言う。危機を感じた輝宗は、隠居して藤次郎に家督を継がせることを決意するのだった。
天正12(1584)年、藤次郎政宗(渡辺謙)は、伊達家17代当主となる。側衆には伊達成実(しげざね・三浦友和)、片倉小十郎(西郷輝彦)、鬼庭綱元(村田雄浩)らが選ばれ、家中の若返りが図られた。近隣諸国からは、続々と祝儀の使者がやって来た。そして、まだ若き19歳の政宗は、東北で最大最強の芦名家に敢然と戦いを挑む。壮挙というべきか、無謀というべきか、まさに政宗の器量を問う合戦であった。
天正13(1585)年5月、伊達軍は会津国境の檜原峠から芦名領へ攻め入るが、大塩城の守備は固く、戦況はおぼつかなかった。6月、小十郎(西郷輝彦)の進言で、政宗(渡辺謙)は兵を米沢へ一旦は引き揚げた。緒戦のつまずきに、一行の足どりは重かった。この頃、関白となった豊臣秀吉(勝新太郎)は、新築した大坂城にあって、連日、大名たちと会見し、祝いのあいさつを受けていた。8月、政宗は小浜城の大内討伐に向かう。
天正13(1585)年8月、伊達政宗(渡辺謙)による大内討伐の戦いの火ぶたは、小手森城で切って落とされた。大内定綱(寺田農)は、会津と二本松に援軍を求め、持久戦の構えだったが、伊達成実(しげざね・三浦友和)の働きで戦局は一転、小手森城は陥落する。しかし、政宗は定綱が逃げたと知って、激怒する。ろう城していた大内勢は、およそ800人。政宗は、この800人をみな殺しにして塩松郡の武将を震え上がらせた。
伊達政宗(渡辺謙)の次の標的は、二本松城の畠山義継(石田弦太郎)であった。政宗の父・輝宗(北大路欣也)は、政宗に義継との和睦を勧める。しかし、政宗は自分にすり寄ってくる義継の軟弱な態度が気に入らず、義継に対して、領土の大半と子どもをひとり人質に差し出せと告げた。追い詰められた義継は「お礼言上」と称して政宗に面会を求めるが、これを拒否されると、輝宗を拉致し人質として二本松城に連れ去ってしまう。
天正13(1585)年10月、畠山義継の人質となった政宗(渡辺謙)の父・輝宗が非業の死を遂げる。政宗の母・お東の方(岩下志麻)は、輝宗が亡くなったのは政宗の不手際だと責める。政宗は父の葬儀を盛大に執り行い、一日も早く二本松城を落とす決意を新たにする。一方、二本松城救援のため、佐竹・芦名ら南奥州の大名連合軍が、3万の軍勢を須賀川に結集する。政宗は、伊達家の存亡をかけた戦いで勝利する。
3万人の南奥州の大名連合軍を撃退した政宗(渡辺謙)も、天然の要害・二本松城を攻略することは容易ではなかった。9か月にわたって籠城、抵抗された政宗は、改めて城を完全包囲したうえで物資補給路を遮断し、かつ畠山家の残党を見逃がすことを条件に、天正14(1586)年7月、二本松城を無血開城させる。塩松郡と二本松領を手中に収めた政宗は、父の墓前に「いつの日か必ず天下を取ってご覧に入れます」と誓うのだった。
愛(めご)姫(桜田淳子)は、自分に子どもができないことが、伊達家と田村家の不和の原因になっていると悩んでいた。そんな時、政宗(渡辺謙)は最初の側室として、猫御前(秋吉久美子)を迎える。猫御前は自由奔放で魅惑的で、政宗のちょう愛を一身に受けていた。「私は伊達家に嫁ぐべきではなかった」と思い悩む愛姫の姿を見た政宗の母・お東の方(岩下志麻)は、猫御前に対し、側室としての身分をわきまえるように忠告する。
天正16年1月、政宗(渡辺謙)は、大崎氏の内紛を鎮めるため、母の里・最上家の本家筋の大崎へ出兵する。この出兵をめぐって、政宗と母・お東の方(岩下志麻)の意見が対立し、政宗は「母上は、伊達家よりお里の最上家が大切か」と強く非難。戦況の方も、黒川月舟斎の裏切りと、大崎氏の頑強な抵抗や大雪にもたたられて伊達の軍勢は総崩れとなってしまう。そして、いよいよ最上義光(原田芳雄)が、政宗に狙いを絞って動き出す。
天正16(1588)年3月、伊達成実(三浦友和)が、大内定綱(寺田農)の軍勢を打ち破った。破れた大内定綱は、頭を丸め、伊達家に奉公したいと申し出る。政宗(渡辺謙)は、定綱を打ち首にしようとするが、家臣から「芦名との決戦の時に利用価値がある」と進言され、召し抱えることにする。一方、政宗の母・お東の方(岩下志麻)は、北方の脅威・最上義光(原田芳雄)との和睦を勧めるが、政宗は頑として聞き入れない。
天正16年6月、政宗(渡辺謙)は、郡山で佐竹・芦名らの連合軍と対じしていた。政宗は、母・お東の方(岩下志麻)の兄である最上義光(原田芳雄)と和睦し、最上の軍勢を郡山に投入すべく、母に和睦の段取りを頼む。しかし和睦の交渉は難航し、伊達、最上の両軍は国境の中山峠をはさみ、一触即発の状態に。お東の方は、自らよろいを身にまとって中山峠に駆けつけ、両軍の間に居座り、命懸けで両者を和睦させようとするのだった。
天正17年4月、伊達政宗(渡辺謙)は奥州平定を急ぎ、阿子ヶ島城、高玉城を全滅させ、相馬、岩城にけん制の一撃を浴びせる。政宗の陽動作戦は的中し、芦名軍は政宗を迎え討つべく須賀川へ大軍を繰り出した。5月末、政宗は、芦名の重鎮・猪苗代盛国に謀反を起こさせる。芦名軍は、盛国討伐のために急きょ北上。政宗は、盛国をおとりにして、芦名単独の軍勢をおびき出すことに成功し、奥州の覇権を賭けた決戦に臨むことになる。
天正17年6月、政宗(渡辺謙)率いる伊達軍と芦名義広(堤真一)率いる芦名軍が、奥州の覇権を賭けて磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で激突した。午前中は、芦名軍が伊達の先陣・猪苗代軍と、第二陣・片倉小十郎(西郷輝彦)隊を破り、優勢であった。しかし、芦名勢内部で内輪もめが起こり形勢は逆転、戦いは伊達軍の圧勝に終わる。会津の武将たちは伊達に続々と降伏し、政宗は奥州の覇権の象徴・黒川城入城を果たすのだった。
天正18年、豊臣秀吉は北条氏討伐に際し、政宗(渡辺謙)に参陣を促す。しかし、政宗はこれを拒絶。これを知った母・お東の方(岩下志麻)は、お家安泰を願って政宗のちっ居を画策するが失敗に終わる。政宗は、愛姫(桜田淳子)に「天下は手に入りそうもない。生まれてくるのが遅すぎた」と述懐。お東の方は、兄・最上義光(原田芳雄)から「政宗の首を関白に献上しろ」と政宗暗殺を強く勧められ、苦悩するのだった。
政宗(渡辺謙)は、遂に小田原参陣を決意し、母・お東の方(岩下志麻)を訪ねる。政宗は、祝いの膳に舌鼓を打つが、突然、吐き気と激しい腹痛を催し苦悶する。母が膳に毒を盛ったのだ。危うく一命をとりとめた政宗は、母ではなく、弟・小次郎(岡本健一)を謀反人として斬り殺した。小次郎の死を知ったお東の方は自害を図るが、片倉小十郎(西郷輝彦)にいさめられ、兄・最上義光(原田芳雄)のもとへ落ちのびるのだった。
政宗(渡辺謙)が小田原へ向かった時、秀吉(勝新太郎)の軍勢はすでに北条氏の小田原城を包囲していた。参陣が遅れた政宗に怒り心頭の秀吉は、重臣らを送りこみ、政宗に遅れた理由を問い詰める。政宗は必死に弁明、何とか苦境を切り抜けたが、家康(津川雅彦)から「秀吉殿は長陣で退屈している。お前の首をつなぐには奇抜な趣向が欲しい」と聞かされる。政宗は白装束に水引きの元結いという<死に装束>で秀吉のもとへ参上した。
天正18年6月、政宗(渡辺謙)は秀吉(勝新太郎)に初めて謁見。政宗の「打ち首覚悟で参上しました」という姿を見て、秀吉は「命は助けてやろう。運の良いやつよ」と微笑む。しかし、秀吉の命令により、政宗は断腸の思いで会津の領土を返上することになった。こうして小田原参陣が遅れたことを許された政宗だったが、「秀吉は54歳、俺は24歳。いつの日か東国から風を吹かせてみせる」と秀吉への逆襲を心に誓うのだった。
秀吉(勝新太郎)は政宗(渡辺謙)に、愛姫(桜田淳子)を人質として差し出すよう命じる。政宗は幾度も断るが、秀吉に執ように上らくを迫られた愛姫は「伊達家安泰のために上らくしたい」と申し出るのだった。政宗は秀吉の色好みを心配していたが、愛姫は「自害してでも操を守り抜く」と気丈な覚悟を見せる。この頃、奥州では至るところで一揆が勃発していた。秀吉は政宗に「蒲生氏郷(寺泉憲)とともに一揆を鎮圧せよ」と命じる。
政宗(渡辺謙)は、ひそかに農民一揆を勃発させて、ライバル・蒲生氏郷(寺泉憲)をかく乱しようと計画していた。しかし、伊達家の家臣が寝返り、政宗が農民一揆の首謀者に与えた密書を氏郷に渡してしまう。政宗の謀略を知った氏郷は、「政宗謀反」の証拠として、密書を秀吉(勝新太郎)の元へと届けた。政宗は秀吉から上らくを命じられるが、証拠の書状には政宗の花押が押してあり、今度こそ打ち首を覚悟するしかなかった。
上洛の途中、尾張の清州城で秀吉(勝新太郎)に拝謁した政宗(渡辺謙)は、証拠の密書は偽物であると主張し「密書の鳥をかたどった花押には、目の穴が開いていない。本物ならば針で穴をあけてあるはず」と申し開きをする。これを聞いた秀吉は「政宗逆心の疑いは晴れた」と政宗を許した。このまま上洛するよう命じられた政宗は、白装束に巨大な黄金の<はりつけ柱>をかついで京を行進し、その趣向が秀吉を大いに喜ばせた。
京に腰をすえた政宗(渡辺謙)にとって、千利休(池部良)との茶のひと時は、至福の時であった。利休もまた、ことのほか政宗を可愛がった。しかし、政宗のことを快く思っていない石田三成(奥田瑛二)が秀吉(勝新太郎)に「利休が頻繁に政宗と会い、密談している」と告げる。嫉妬した秀吉は、利休を京から堺に追放し、さらに切腹の命まで下した。政宗は怒りに震えながら「俺には秀吉という男がわからん」とうめくしかなかった。
政宗(渡辺謙)は大崎・葛西の一揆を完全に鎮圧したが、秀吉(勝新太郎)から国替えを命じられ、知行を72万石から58万石にまで減らされてしまう。今回の国替えの不満を、政宗は家康(津川雅彦)にぶつけるが、家康は「新しい領地は、東には海が開け、西には金山がある。腕次第で、富は海からも山からも無尽蔵だ」と政宗を諭す。米沢城を没収された政宗は「今は神妙に引き下がり、時節を待つのが得策」と心を決めるのだった。
政宗(渡辺謙)の正室・愛姫(桜田淳子)をわがものにしたい秀吉(勝新太郎)は「愛姫には悪いきつねがついている」といううわさを流し「きつね落としの祈とうをするから伏見城に来るように」と愛姫に命じる。途方にくれ、自害を考えるまでに悩む愛姫。見るに見かねた世話役・喜多(竹下景子)は、独断で、政宗の側室を替え玉として伏見城へ行かせた。秀吉はこれを笑って許したが、政宗は喜多に激怒し、閉門ちっ居を命じた。
伊達の軍勢は、朝鮮遠征軍の予備軍として、肥前・名護屋城で長く待機していた。文禄2年4月、ついに伊達軍はプサン(釜山)に上陸するが、遠征軍は各地で敗北を喫し、伊達軍も苦しい戦いを強いられることになる。8月、淀君(樋口可南子)が男子を産むと、秀吉(勝新太郎)は、朝鮮遠征軍の撤退を決断した。翌年、政宗(渡辺謙)の正室・愛姫(桜田淳子)も女の子を出産、政宗は「初めは、姫でよいのだ」と愛姫を慰めるのだった。
岩出山城に戻った政宗(渡辺謙)は、虎哉和尚(大滝秀治)の勧めで、弟・小次郎の元を密かに訪れた。そこで、母・保春院(岩下志麻)と5年ぶりに再会する。政宗は、かつて政宗の毒殺を謀った保春院に「生涯、母上の子でござる」と語り、保春院は涙を流すのだった。一方、石田三成(奥田瑛二)のざん言に惑わされた秀吉(勝新太郎)に関白の位を剥奪された豊臣秀次(陣内孝則)は、高野山の青巌寺で切腹し28年の生涯を閉じた。
秀次事件で、最上義光(原田芳雄)は謹慎、浅野長政はちっ居、政宗(渡辺謙)も上洛を命じられた。政宗は秀吉(勝新太郎)に「秀次の謀反に加担した罪は濡れ衣だ」と主張するが、聞き入れられず流罪が決定。覚悟を決めた政宗だったが、ある夜、徳川屋敷の門前に立てられた奇怪な高札をめぐって事態が一転。高札を巡って家康(津川雅彦)が秀吉を巧みに説得し、おかげで、政宗はかろうじて流罪を免れることができる。
政宗(渡辺謙)の重臣・伊達成実(三浦友和)は、秀吉(勝新太郎)に手なずけられてしまった政宗に「足しげくご機嫌伺いに出入りするのは茶坊主同然」と面と向かって批判、妻・登勢(五大路子)に「侍がいやになった」と言い残し、出奔する。慶長元年、政宗は、従四位下・右近衛権少将に叙せられ、秀吉を伊達屋敷に招いて祝宴を開いた。ところが、秀吉は、この宴席のさ中に突然倒れ、その2年後に波乱の生涯を閉じることになる。
秀吉の死後、奥羽の盟主・政宗(渡辺謙)をめぐって、石田三成(奥田瑛二)と家康(津川雅彦)が天下の綱引きを始めた。この頃政宗は、2年前に出奔した重臣・伊達成実(三浦友和)に最後の使者として片倉小十郎(西郷輝彦)を差し向けるが、成実は頑として帰参の勧告に応じなかった。政宗は、成実の居城を召し上げることを決断。しかし、城の引き渡しを拒む成実の妻・登勢(五大路子)とその子らは自害して果てるのだった。
家康(津川雅彦)は上杉討伐を決断する。先陣を命じられた政宗(渡辺謙)は、上杉勢の立てこもる白石城への猛攻撃を開始する。そこへ、突然一騎の騎馬武者が敵陣に斬りこんだ。それは、出奔した重臣・伊達成実(三浦友和)であった。帰参した成実は、政宗と「いつの日か、天下をとる」という目標を確認し合う。一方、京では、石田三成(奥田瑛二)が反徳川勢を結集して挙兵。天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まろうとしていた。
上杉勢と戦っていた政宗(渡辺謙)が、関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利を知ったのは、半月後のことだった。石田三成(奥田瑛二)が処刑された頃、奥羽の地でさらなる戦いを繰り広げていた政宗は、家康(津川雅彦)と交わした「百万石の念書」を胸に、新しい城普請の夢を広げていた。しかし、慶長6(1601)年、政宗のもとに家康から「和賀忠親の一揆に加勢した件について、申し開きをするために上洛せよ」という詰問状が届く。
慶長6(1601)年、伏見城に上洛した政宗(渡辺謙)は、家康(津川雅彦)から帰国を固く禁じられた。政宗は「いつかは、奥州の王として千代城に陣どり、家康にほえ面をかかせてみせる」と誓う。しかし、翌年、家康は徳川体制を天下に誇示するために、江戸城のまわりに大名屋敷を造り始めた。夢にまで見た千代城を完成させた政宗は、家康に帰国を願い出るが、許されないどころか、家康の命に服して、江戸に下ることになる。