甲斐の盟主・武田信玄亡きあと家督を継いだ息子の勝頼だったが、天正10年(1582)、織田勢の激しい攻撃を受ける。そのころ上州の真田昌幸は、嫡男・信幸、次男・幸村らを前に、勝頼を当家に迎え城を守り抜くという決意を明かす。しかし家中をまとめきれなかった勝頼は昌幸の誘いを断り織田の軍勢の前に敗れ去る。主家を失った真田の領地を狙う上杉・織田・徳川・北条に対し真田家の生き残りをかけた戦いが始まる。
武田家が滅び進退を迫られた真田家。昌幸は嫡男・信幸の意見を取り入れ織田信長に接近し生き残りを図るが、信長は真田を試すかのように滝川一益を派遣しその支配下に置こうとする。昌幸は反発し戦おうと意気込むが信幸は甘んじて受けるべきといさめる。昌幸は渋々ながらも滝川一益との会見に臨むが、一益は意外にも真田によるこれまで通りの領地支配を認める。そして天正10年6月。織田信長は本能寺に入る。
織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたこの機に乗じ領地拡大を図る有力武将たちの動きに真田は翻弄される。南からは北条が沼田城を狙う。昌幸は徳川と北条の力の均衡を利用して沼田城をわがものとしておくことに成功する。一方北では上杉と真田の戦端が開かれようとしていた。次男の幸村は戦いに臨もうと勇み立つが昌幸はそれを却下する。あきらめきれない幸村はひそかに父の後を追い、結果初陣を果たす。
上杉勢の攻撃に対し真田信幸と従弟の樋口角兵衛が出陣。数の上では劣勢の真田勢だが信幸は一計を案じ上杉勢を撃退する。だが昌幸は自分の許可なしに角兵衛の初陣を許した信幸を叱責する。昌幸は息子たちが自分を超えて成長していくのに頼もしさと妬ましさの複雑な感情を持つ。一方秀吉と家康の対立が深まり昌幸はこの機に乗じ関東を手に入れようと動き始める。しかし真田家の中で昌幸の愛妾・お徳の存在が大問題となり始める。
真田昌幸は樋口角兵衛を牢(ろう)に入れ、お徳を名胡桃(なぐるみ)城に移す。昌幸の正妻・山手殿は、お徳を襲わせたと昌幸に疑われているのではと不安に。次男・幸村はお徳を気遣い、小姓の向井佐平次にだけ自らの出生の秘密を明かす。さらに、嫡男・信幸は角兵衛の母・久野と牢(ろう)へ。久野は変わり果てた息子の姿に動揺し、二人の前で、角兵衛にまつわる重大な秘密を口走ってしまう。
天正12年(1584)3月、秀吉との小牧の戦は家康の大勝利。家康の配下でありながら秀吉の勝利を期待し、北条から甲斐・武田の旧領を奪い返そうとした真田昌幸は落胆。一方の嫡男・信幸は、十分の一の兵力で勝った家康の軍略に感服する。次男・幸村は行方をくらましている従弟・角兵衛を探しに行くが、山林に潜んでいた角兵衛に襲われ、怪我を負う。忍び・お江に助けられ、山小屋で二人きり、夜を共にすることになる。
天正13年(1585)初夏、家康は真田昌幸に真田領の上州沼田を北条へ引き渡せと命じる。昌幸は理不尽な命令を拒否し家康との戦を決意。そこで次男・幸村を連れ背後の敵・上杉景勝に和睦を申し込みに行く。景勝は昌幸の虫の良い申し出を条件なしに受け入れ、真田親子は感銘を受ける。真田家の命運をかけた一か八かの戦を前に覚悟を決める男たち。武運を祈ることしかできない女たち。そして真田家の一大事にあの男も姿を現す。
徳川軍1万が、上田城を攻撃。真田方は見事な軍略でこれを打ち破り、一躍武勇を天下にとどろかせる。真田に援軍を送ってくれた上杉景勝への返礼として、真田昌幸は次男・幸村を人質として送る。景勝は春日山城へ入った幸村を、人質としてではなく近侍として目をかける。危機を乗り越えたかに見えた昌幸であったが、家康からは嫡男・信幸を婿にしたいと言われ、秀吉からは次男・幸村を大阪によこせと言われてしまう。
真田昌幸は上杉景勝への不義理を承知で、次男・幸村を大坂へ送ることを決意。幸村を特別可愛がっていた景勝は寂しさを押し殺し、幸村を送り出す。一人大阪入りした幸村のもとに、忍び・お江が会いに来る。おれには女子はお江しか見えんと想いを伝える幸村。嫡男・信幸は徳川の重臣・本多忠勝の娘で、家康の養女となった稲姫を妻に迎え、華燭の宴がおこなわれる。兄は徳川、弟は豊臣と縁を結び、違う道を歩み始めることとなる。
天正17年(1589)秋、真田昌幸の嫡男・信幸は家康の養女を妻に迎え徳川と良い関係を築き、次男・幸村もまた器量の良さを認められ、秀吉のそばに仕えていた。そんな平穏な日々の裏で秀吉が陰謀を企てる。北条の沼田城代に偽の書状を送り、真田領の名胡桃(なぐるみ)城を襲わせ、それを口実に北条を攻める策だった。忍び・お江が情報を得て、昌幸に報告。昌幸は苦悩の末、お徳と娘・お菊が暮らす名胡桃城を捨てる選択をする。
北条軍の攻撃を受け、名胡桃(なぐるみ)城はあっけなく落城。真田昌幸の愛妾(あいしょう)お徳が犠牲となった。自分の母を重ねていた次男・幸村は、お徳の死を知り深く悲しむ。天正18年(1590)正月、秀吉からの出陣命令がでる。昌幸は約3千の兵を率いて出陣。上杉勢、前田勢と合流し、北条の本拠地・小田原へ向かう。秀吉は25万もの軍勢で小田原城を完全に包囲。北条は数か月にわたり城にこもり続けるも、敗北する。
天正19年(1591)春、沼田城は真田の手に戻り、真田昌幸は、嫡男・信幸を城主に命じる。秀吉が朝鮮出兵を決めると、信幸のもとには、家康からと上田本家からの二つの知らせが届く。昌幸の叔父・矢沢頼綱は、本家と分家が戦うことあれば、槍をつきつけねばならぬと、信幸に当主としての覚悟を問う。一方、次男・幸村は、秀吉から大谷刑部の娘を嫁にもらうよういわれる。そんな中、豊臣と徳川の戦を予感させる出来事がおこる。
天正19年(1591)秋、秀吉の下で甲賀忍者を束ねる山中長俊は、ひそかに甲賀の頭領・山中俊房の屋敷を訪れる。同じ甲賀忍者ながら、俊房は徳川方の諜報網(ちょうほうもう)の元締めで、豊臣方の長俊とは敵味方。二人は、ともに徳川方に協力するという密約を交わす。真田の忍び・お江が長俊を追って甲賀の里に潜入するが、運悪く発見されて、死闘の末、深手を負ってしまう。お江が行方不明と知り、幸村は激しく動揺する。
朝鮮出兵の拠点・肥前名護屋に向かう途中、家康と秀吉のもとへ立ち寄る真田父子。真田昌幸の嫡男・信幸は、子を授かったことを家康に報告。家康は、養女・小松殿と信幸との子の知らせに喜ぶが、先に知らされていなかった父・昌幸は戸惑う。一方、秀吉も真田父子に対し、末永い忠誠を求める。昌幸は忍び・壺谷又五郎に、今後は信幸には何も伝える必要は無いと告げる。信幸もまた、本家との隔たりが増していることを察していた。
文禄元年(1592)春、傷が癒えた真田の忍び・お江は、仲間・田子庄左衛門の助けで、甲賀からの脱出を試みる。しかし、忍び同士の死闘で庄左衛門は死亡し、お江は頭領・壺谷又五郎に救出される。同じころ、肥前名護屋に15万の将兵が集結し、名護屋城では毎夜酒宴が催されていた。朝鮮に苦戦しているというのに、秀吉は京にもう一つ城を造ると言い出す始末。嫡男・信幸は、秀吉亡き後の真田家の命運について思いをはせる。
嫡男・信幸の妻・小松殿が姫を出産。秀吉に報告をと言う父・真田昌幸に対し、まずは家康にと意見する信幸。朝鮮に苦戦を続ける中、信幸は昌幸に、秀吉亡き後の本家の選択を問い、頼りは家康だけだと思いを告げる。そんな折、秀吉の嫡男が誕生し、秀吉が気力を取り戻す。次男・幸村は、忍び・お江への書状を頭領・壺谷又五郎にたくす。快復が遅れていたお江は、「生きてさえいれば、いつか会える」という幸村の言葉に励まされる。
文禄4年(1595)初夏、関白・豊臣秀次が乱行を理由に自害。秀吉は、その首を河原にさらす。秀次の正室が真田昌幸の正室・山手殿の妹という関係で、昌幸は真田に火の粉が降りかかることを懸念する。その後、秀吉は再び朝鮮出兵を決める。嫡男・信幸は、家康のおかげで出兵を回避。次男・幸村は、お江との再会を果たす。そして、昌幸は、病床の叔父・頼綱を見舞うが、頼綱は真田家の行く末について昌幸に言葉を残し亡くなる。
慶長3年(1598)8月、秀吉は、家康ら五大老に「秀頼のこと、くれぐれも頼む」と遺言を残し、石田三成ら五奉行には「秀頼に忠誠を尽くす」という誓詞を書かせて生涯を終える。真田の忍び・お江は真田幸村に、「家康はいよいよ牙をむいたように見える。必ず少しずつ進みます」と告げる。そんな中、従弟・樋口角兵衛は家康方の甲賀忍びに利用されてしまう。真田家は、秀吉の死により、再び時代のうねりに飲み込まれていく。
対立していた、家康と前田利家。利家に諭され、家康は伏見城から退去。利家が息を引き取ると、加藤清正らは石田三成の暗殺を計る。真田幸村は、義父・大谷刑部の命を受け、忍びを手配し暗殺を阻止。三成は、家康の計らいで清正らの追及をかわすも、それにより奉行職を解かれ隠居に追い込まれてしまう。三成を追い出した家康は、伏見城に戻り、天下人への布石を打ち始める。そして、真田の本家と分家の溝も深まっていく。
家康は大坂城をにらみ、豊臣方を切り崩していく。反徳川の石田三成を隠居させると、前田、浅野らに謀反のぬれぎぬを着せて屈服させ、上杉景勝の討伐命令を下す。この命令に真田父子は動揺し、大恩ある上杉に槍(やり)をむけることに対し痛恨の思いを抱く。嫡男・信幸は領主である以上は恩義だけに惑わされてはならぬと、父・昌幸に思いを伝える。一方、次男・幸村は父が上杉の味方をするならば自分も従うと伝える。
慶長5年(1600)6月、上杉討伐に出陣した家康に応じ、真田軍も徳川軍と合流すべく碓氷峠を進軍。同じころ、近江佐和山城で隠居していた石田三成が上杉景勝と手を結び、家康を倒すために決起。三成の密使から西軍決起の報を受けた真田昌幸は、恩義のある景勝に味方し家康に反旗を翻す決意をする。嫡男・信幸は家康に従う信念を貫き、真田父子は敵味方に別れることになる。
下野国犬伏の陣において、真田信幸は家康に従う信念を貫き、苦悩しつつも父・昌幸、弟・幸村と袂(たもと)を分けた。徳川方の諸将は、「いつ裏切るか知れたものではない」と信幸に冷たい視線を向ける。しかし、家康は、信幸の忠誠を信じ、沼田に戻って次の命令を待つよう言い渡す。また、真田本家の決断を聞き、忍びたちが動き出す。忍び・お江は、幸村の元を訪ね、家康と刺し違えるつもりだと告げる。
慶長5年(1600)8月、真田信幸は、徳川秀忠軍と合流し、中仙道から美濃へ抜けよという命令を受ける。秀忠は信幸を使者に立て、真田昌幸に上田城明け渡しを迫る。昌幸は息子の勧めならばと快諾し、三日間の猶予を申し出る。しかし、それは秀忠軍を上田に引き留め、関ヶ原への参戦を遅らせる策略だった。昌幸に翻弄された秀忠は怒り、上田城への侵攻を決める。こうして、信幸は故郷を攻めねばならなくなる。
慶長5年(1600)9月、徳川秀忠は真田昌幸の謀略に怒り上田城に侵攻。上田城の前線基地・砥石(といし)城にいた昌幸の次男・幸村は、先頭に兄・真田信幸の姿を見ると、兄の面目を立てて一戦もせずに引き上げる。秀忠は幸村が恐れて逃げたと思い油断する。翌朝、昌幸は秀忠軍を奇襲、上田城へ誘い込んでは巧みに撃退する。その結果、秀忠は関ヶ原に遅参し、家康から激しい叱責(しっせき)を受けることとなる。
慶長5年(1600)9月、岐阜城を出た家康は、一路赤坂へと軍を進める。美濃では真田の忍びたちが、家康の首を狙っていた。家康の一行に紛れ込んでいた忍びのお江は単身、長良川を渡る家康を急襲。しかし、今一歩のところで、甲賀忍者・猫田与助に阻まれる。真田昌幸は「忍びの者なら、家康の首を取るに違いない」と期待していたが、家康の影武者に惑わされ、襲撃はことごとく失敗。家康は、石田三成のいる大垣城にたどり着く。
慶長5年(1600)9月、東西両軍が集結した関ヶ原で、戦いの火ぶたが切られた。数万の軍勢がひしめく混乱の中、家康率いる東軍は苦戦を強いられる。しかし、小早川秀秋が裏切ると西軍は総崩れとなり、石田三成は敗走。真田の忍びの頭領・壺谷又五郎は、家康の首を狙い本陣へ突撃するも、家康方の忍びに阻まれ相討ちに。西軍は大敗し、真田昌幸の野望はむなしくついえる。家康は再び大阪城に入り、諸大名の処分を開始する。
東軍・家康の戦後処理は厳しく、真田信幸は、敗者側の父・昌幸と弟・幸村の切腹を覚悟していた。しかし、義父・本多忠勝は、家康に信幸の徳川家への忠誠を説き、真田父子の助命を懇願。主君にさえ一歩も引かぬ忠勝の気迫に家康が折れ、昌幸と幸村は紀州・九度山へ蟄居(ちっきょ)と決まる。信幸は、二人を送り出す役目を命じられる。真田の忍びたちは、頭領・又五郎の亡きがらを見つけ、又五郎の死を知らされた昌幸は涙する。
上田城を与えられた真田信幸は、名を「信之」と改め、家康への忠誠を誓う。一方、父・昌幸と弟・幸村は配流先の紀州・九度山へ旅立つ。出立前夜、幸村の元に現れる忍び・お江。そして、慶長10年(1605)4月、家康は息子の秀忠に将軍位を譲る。隠居した家康は、大坂城の豊臣秀頼に再三の上洛(じょうらく)を要請するが、実権を握る母・淀君が拒絶し一向に応じない。関ヶ原の戦いから5年、新たな火種がくすぶり始める。
慶長15年(1610)2月、真田昌幸・幸村父子は、配流先の紀州・九度山で10回目の冬を迎える。表向きは徳川家への恭順を示しながら、忍びのお江らに天下の動静を探らせていた。京の室町で印判屋を装うお江は、京に浪人が増え、幅広い人脈を持つ才女・お通の屋敷に、人が頻繁に出入りする様子などから不穏な動きを察する。徳川と豊臣の対立が一触即発になった時こそ、世に出る好機と昌幸は踏んでいた。
慶長15年(1610)秋、真田信之の義父・本多忠勝は信之に「真田家の存続を願うなら、幕府の命じたこと以外は動いてはならぬ」と言い残し世を去る。真田家に深い理解を示してきた忠勝という大きな後ろ盾を失い、父・昌幸と弟・幸村の赦免は絶望的に。そのころ、紀州・九度山では、昌幸が病に伏していた。忍び・お江は、真田家のため再び家康の首を狙うと決心するが、幸村は止める。そして、信幸の元に昌幸危篤の知らせが届く。
慶長16年(1611)、加藤清正による徳川、豊臣の和解工作が功を奏し、豊臣秀頼は今は戦を起こさぬと決断する。前年暮れから病床にあった真田昌幸の落胆は大きく、日ごとに衰弱していく。真田の忍び・弥五兵衛は、真田家の無念を晴らすべく、忍び・お江の制止を振り切り、家康襲撃を志すも甲賀忍びに始末されてしまう。そんな折、東西の手切れの気配。昌幸は、真田の武名をもう一度天下にという悲願を、次男・幸村にたくす。
慶長16年(1611)3月、5万の大軍を率いた家康が京に到着。家康からの上洛(じょうらく)の要請を拒んでいた豊臣秀頼の母・淀君も、加藤清正らの説得に折れ、二条城で家康と秀頼の対面がかなう。家康の予想に反して、19歳の堂々たる若武者・秀頼は京で絶大な人気を呼ぶ。その報に紀州の真田昌幸はほくそ笑むが、ほどなく、次男・幸村に夢を託して65年の生涯を閉じる。上田城にも報せが届き、嫡男・信之も一人涙する。
真田昌幸が亡くなり、正妻・山手殿は嫡男・信之のもとへ引き取られた。信之は、いずれ九度山にいる次男・幸村も上田に呼びたいと考えていた。しかし、慶長19年(1614)秋、豊臣家が再建した方広寺の大仏開眼供養が中止となる事件が。家康は鐘銘の「国家安康」の文字が徳川家を呪(のろ)うものとし、大坂攻めの口実にしようとしていた。信之のもとには、本多忠政がやってきて、徳川家に疑われる動きをせぬよう念を押される。
紀州の真田幸村のもとに、豊臣家と徳川家が、万が一戦になったら、味方として大坂入りしてほしいという豊臣家からの要請がくる。ついに真田本家再興の時が到来したと、幸村は赤備えの甲冑を手配する。家康は豊臣家に、豊臣秀頼の江戸への出府か、秀頼の母・淀君を江戸へ送るか、豊臣家が大坂を離れて他国へ移るか、いずれか一つを承服するようにと要求する。そして、信州・上田城の信之のもとに、豊臣家討伐の出陣命令が下る。
慶長19年(1614)秋、方広寺鐘銘事件を巡り豊臣家と徳川家は決裂。真田信之のもとにも、豊臣家討伐の出陣命令が届く。信之は、出陣する息子らに対し、遠慮をしないことが弟・幸村への武士としての礼儀と伝え、兄弟力を合わせて戦えと送り出す。かつて幸村に仕えていた向井佐平次は、出奔し大阪へ向かう。一方、幸村は、妻の於利世(おりよ)と娘らを彦根の忍び宿に逃がし、忍びの佐助やお江、息子の大助と共に大阪城に入る。
慶長19年(1614)10月、真田信之の嫡男・信吉を総大将とする真田軍が出陣。同じころ、家康も駿府を出発し、西へ向っていた。一方、大坂城では、城を出て先手を打つべしという幸村の提案を淀君がはねつけ、籠城(ろうじょう)と決まる。幸村は大坂城外に真田丸という出丸を築き始める。ここに徳川軍の主力を引き付けることが狙い。この話を聞いた信之は思わずほほえみ、ひそかに幸村の健闘を祈る。
慶長19年(1614)11月、真田幸村の出丸がついに完成。幸村はこれを「真田丸」と名づけ、「真田家ここにあり」と内外にその名を示す。徳川軍は大坂城に迫り、家康は茶臼山に本陣を定める。家康は、幸村の存在を警戒し、将軍・秀忠に知らせず、密かに真田信之を京の二条城に呼び寄せる。東軍の攻撃が停滞すると、家康は自ら敵の陣形を確かめに行くと言い出す。その情報を得た真田の忍びたちは、家康の暗殺を試みるが、、、。
慶長19年(1614)11月、大坂冬の陣の火ぶたが切って落とされた。出丸や砦(とりで)を破壊され、じりじりと城内へ追いやられていく豊臣軍の中で、唯一、徳川軍に打撃を与えたのは真田幸村だけだった。幸村は巧みな軍略で敵を真田丸へ引きつけて撃退する。しかし、徳川方の100を越す大砲による攻撃に淀君が恐れをなし、12月22日に和議が成立。真田丸は打ち壊され、大坂城の外堀も埋められることとなる。
元和元年(1615)正月、家康は信之に、京のお通屋敷で幸村に会い、徳川方に加わるよう説得せよと命じる。信之には幸村を説得する意思はなく、生きているうちに一目、弟に会いたい一心から出向く。幸村もまた、兄に会いたい一心でやってくる。15年ぶりに再会した兄弟は、心ゆくまで積もる話に花を咲かせる。幸村は死を覚悟し、兄に最後の挨拶をするつもりだった。信之は、何故戦うのかと問いつつも、幸村の思いを悟っていた。
元和元年(1615)4月、家康は、豊臣秀頼に大坂城を出て、大和郡山に移封せよという最後通牒(つうちょう)を突きつける。大坂方は、再戦を望む浪人衆を抑えきれず、幸村は次の決戦はそう遠くないと確信する。伏見に滞在していた真田信之は、小野お通のことが頭から離れずにいたが、家康から江戸へ戻るよう命令が下る。家康は名古屋で九男・義直の婚儀列席という名目で駿府を出て、ひそかに諸大名へ出陣準備を命じる。
大坂冬の陣から5か月余り、徳川と豊臣は再度決戦の時を迎えようとしていた。徳川軍15万に対し、豊臣軍は5万足らず。真田幸村は後藤基次と相談し、基次が先陣を務め家康、秀忠の動向を探る作戦に。しかし、濃霧で幸村が進めずにいる間に、敵の軍勢が迫り、基次は討ち死に、木村重成も討ち死にし全滅となる。急行した幸村は東軍を撃退。幸村は、最後の決戦に備える。忍び・お江もまた、最後を覚悟し幸村と別れの挨拶を交わす。
元和元年(1615)5月、真田幸村は、豊臣軍の主将・秀頼が大阪城を出たら、出陣すると決める。しかし、秀頼の旗印は一向に見えず、幸村は、息子・大助を大阪城へ向かわせる。家康軍は、全軍に出撃命令を出し、大阪夏の陣の火ぶたが切っておとされる。幸村は、本陣へ奇襲をかけ、深手を負うも家康を追い詰める。しかし、あと一歩のところで本懐を遂げられず、立ち去る。その夜、幸村は、向井佐平次の最後を見送り、自害する。
大坂夏の陣は、徳川の圧勝に終わり、豊臣家は滅びた。真田信之は弟・幸村のことで何らかの沙汰があることを覚悟していたが、家康は「敵ながら見事な戦いぶり」と幸村をたたえた。上田領もそのまま信之に安堵(あんど)し、その後も家康は真田家に深いいたわりを示す。しかし、元和2年(1616)春、その家康が75歳で亡くなる。これを機に幕府は信之に、嫡男の信吉を沼田に分家させ、妻の小松殿を江戸に送れと迫る。
忍び・お江は、真田の家臣・馬場彦四郎が幕府の隠密であることを突き止め、真田信之に知らせる。家康亡き後、幕府には真田取りつぶしの陰謀が渦巻いていた。信之は、小野お通から届けられた幸村の遺髪を、お江にも見せてやる。幸村亡き後、気力を失っていたお江は、再び真田家のために働く決意をする。また、信之は京のお通の屋敷へ赴き、2年半前の弟・幸村との対面が家康の命令だったと証拠立てできぬ時は、力添えを懇願する。
元和3年(1617)秋、真田信之は弟・幸村と京で密会したことを厳しく詰問されるが、家康直筆の書状を出して追及を切り抜ける。しかし、幕府の真田つぶし工作は続き、生き残っていた樋口角兵衛までも利用され自害に追い込まれる。その後、幕府の動きは収まるが、信之の最愛の妻・小松殿が病で亡くなる。そして、元和8年(1622)夏、信之は突如、上田から松代へ国替えを言い渡される。ついに、信之は上田を去ることになる。