慶長5年(1600)9月、徳川秀忠は真田昌幸の謀略に怒り上田城に侵攻。上田城の前線基地・砥石(といし)城にいた昌幸の次男・幸村は、先頭に兄・真田信幸の姿を見ると、兄の面目を立てて一戦もせずに引き上げる。秀忠は幸村が恐れて逃げたと思い油断する。翌朝、昌幸は秀忠軍を奇襲、上田城へ誘い込んでは巧みに撃退する。その結果、秀忠は関ヶ原に遅参し、家康から激しい叱責(しっせき)を受けることとなる。