慶長5年(1600)8月、真田信幸は、徳川秀忠軍と合流し、中仙道から美濃へ抜けよという命令を受ける。秀忠は信幸を使者に立て、真田昌幸に上田城明け渡しを迫る。昌幸は息子の勧めならばと快諾し、三日間の猶予を申し出る。しかし、それは秀忠軍を上田に引き留め、関ヶ原への参戦を遅らせる策略だった。昌幸に翻弄された秀忠は怒り、上田城への侵攻を決める。こうして、信幸は故郷を攻めねばならなくなる。