元和元年(1615)5月、真田幸村は、豊臣軍の主将・秀頼が大阪城を出たら、出陣すると決める。しかし、秀頼の旗印は一向に見えず、幸村は、息子・大助を大阪城へ向かわせる。家康軍は、全軍に出撃命令を出し、大阪夏の陣の火ぶたが切っておとされる。幸村は、本陣へ奇襲をかけ、深手を負うも家康を追い詰める。しかし、あと一歩のところで本懐を遂げられず、立ち去る。その夜、幸村は、向井佐平次の最後を見送り、自害する。