真田昌幸が亡くなり、正妻・山手殿は嫡男・信之のもとへ引き取られた。信之は、いずれ九度山にいる次男・幸村も上田に呼びたいと考えていた。しかし、慶長19年(1614)秋、豊臣家が再建した方広寺の大仏開眼供養が中止となる事件が。家康は鐘銘の「国家安康」の文字が徳川家を呪(のろ)うものとし、大坂攻めの口実にしようとしていた。信之のもとには、本多忠政がやってきて、徳川家に疑われる動きをせぬよう念を押される。