慶長15年(1610)秋、真田信之の義父・本多忠勝は信之に「真田家の存続を願うなら、幕府の命じたこと以外は動いてはならぬ」と言い残し世を去る。真田家に深い理解を示してきた忠勝という大きな後ろ盾を失い、父・昌幸と弟・幸村の赦免は絶望的に。そのころ、紀州・九度山では、昌幸が病に伏していた。忍び・お江は、真田家のため再び家康の首を狙うと決心するが、幸村は止める。そして、信幸の元に昌幸危篤の知らせが届く。