民間から初めて皇室に嫁ぐことになった美智子さま。 この日、美智子さまを一目見たいと沿道に詰めかけた国民は53万人。皇居から東宮仮御所までの8.7キロを4頭立ての馬車がゆっくりと走りました。その間には、投石事件や落馬事件など様々なドラマがありました。 開局して間のないテレビ局の中継合戦も、この日が始まりとなりました。戦後、象徴天皇制となり"開かれた皇室"として新たな道を歩み始めた天皇家にとっても、この日はまさに新時代の幕開けを告げるビッグ・イベントでした。 番組では、当時の貴重なフィルムや写真を発掘し、関係者の証言で世紀のドラマを完全再現。 あの日から何が始まったのか、それは今にどう繋がっているのか… 戦後70年の節目の年に、改めて"あの時のニッポン"を振り返りたいと思います。 <あの日を目撃した人> 中村メイコ、中島誠之助、橋田寿賀子…ほか
昭和62年(1987)4月、美空ひばりが緊急入院した。足の付け根と肝臓の病で歩くのも困難な状況となり、一時は再起不能とまで報じられた。しかし、懸命なリハビリで退院、ひばりは記者会見でこう語った。「もう一度歌いたいという信念が、私の中にいつも消えないでありました。ひばりは生きております。」翌年の復活コンサートに向けて、強い意欲を表明したのだ。そして迎えた、昭和63年4月11日。東京ドームは5万人を超えるファンで埋め尽くされた。美空ひばりはこの時、なんと39曲を熱唱。控室にはベッドと酸素ボンベが置かれ、医師が待機するという壮絶な状況での舞台だった。 番組では、今なお語り継がれる"伝説の不死鳥コンサート"を貴重なステージ映像と今だからこそ明かせる関係者の証言で振り返る。また、1945年12月に8歳で横浜・磯子の杉田劇場で初舞台に立ってから今年で70年となる美空ひばり。一体、今に何を遺したのか? <証言者>浅丘ルリ子、橋幸夫、川中美幸、田原総一朗…ほか
「この子のために~命をつなぐ特別養子縁組~」 昭和62年に、特別養子縁組制度が新設されてから、数多くの家族が生まれてきた。 我が子を養子に出さざるを得ない母親、他人の子供でも育てたい夫婦。それぞれの願いによって新たな家族が出会う瞬間をカメラが優しい眼差しで見つめる。そして、生みの親の存在を告知された女性が苦難を乗り越えて奇跡的に母親と再会を果たす物語。 「家族の在り方」とはどのようなものかを問われる名作。 「鳥越俊太郎 医療の現場!密着4年半!新生児集中治療室 小さな命を救いたい」 近年、分娩管理技術の進化や高齢出産の増加により、早産や先天性疾患を抱える赤ちゃんの数は増えていて、NICU(新生児集中治療室)の必要性が高まっている。そんな中、先進的な取り組みを行う神奈川県立こども医療センターに4年半にわたり密着。生まれる前から心臓病の手術が決まっていた赤ちゃん、500gにも満たない体重で生まれてきた赤ちゃんなど、小さな命を守る医師達の活躍を描く。 一方、そんな医師達が抱える医師不足の現状にもメスを入れて、NICUの今に迫る。
「巨人 大鵬 たまご焼き」と言えば、昭和の時代の大衆が好きだったものの代名詞。幕内優勝32回を誇り、現横綱の白鵬が角界の師と仰いだ横綱大鵬が引退を決断したのは、昭和46年5月のこと。その舞台裏では、様々な苦悩や葛藤が渦巻いていた。 昭和36年、当時の史上最年少で横綱昇進を果たした大鵬。同年に横綱となった柏戸とのライバル関係は大きな注目を集め、柏鵬時代と呼ばれる黄金時代を築き上げた。番組では、当時の名取り組みなど華やかな現役時代を貴重な映像と共に振り返る。また、大横綱が引退を決めるまでのプロセスを、家族や関係者などの証言を元に再検証。そこで見えてきたのは、壮絶なケガとの戦いや、大横綱ならではの覚悟や孤独。そして、大鵬が家族にしか見せなかった、とことん人間臭い一面だった。 <あの日を目撃した人> 黒柳徹子…ほか
当時、日本は「55年体制」がスタート。「経済白書」で「もはや戦後ではない」と謳われ、「神武景気」に突入、高度経済成長を遂げようとする転換点を迎えようとしていた。 一篇の小説で描かれた「太陽族」は戦後の価値観が一変し、自信を失った、社会と大人たちに向けた、若者たちの声なきメッセージとなった。「自由」とは何か「豊かさ」とは何か 彼らはその奔放な生き方を通じて社会に問いかけていた。 太陽族を生み出した慎太郎と裕次郎、そして当時の若者たちが時代に向けて 放った一石は何だったのか。 番組ではこのムーブメントと、その後の「兄弟物語」を多面的に描き、探っていく。 <あの日を目撃した人>石原慎太郎 石原まき子 村松友視 石原良純 他
今から45年前に復興工事が始まった薬師寺。金堂、西塔は無事に復興。復興発案から約30年が間近に迫り、一番大きな建造物となる大講堂の復興に取り掛かろうとしていた。現場で働く者の中には、「薬師寺の現場だけでサラリーマン生活を終える」というほどの期間を過ごした者もいれば、全国から結集した宮大工の中には、「大工人生の半分以上」を薬師寺の復興現場にささげたという人もいた。それは、1300年前に建てられた歴史的建造物に隠された"日本古来の匠(たくみ)の技"の奥深さを追求する、職人たちの夢への挑戦でもあった。 「1300年もった建物だから、今度の工事では最低1000年はもつ建物を作る」という、職人たちの壮大なるロマン。建物の基礎研究から始まり、樹齢1000年を超える木を使っての支柱作り、ひび割れしない土壁、そして装飾品や瓦作りなど、その工事は難航を極めた。中には、建設当時の道具の復元が必要な場面も。それは、大講堂だけで約50億円ともいわれる大工事となった。宮大工を中心とした職人たちの信念と技が、日本が誇る世界遺産に隠されていた伝統技法を読み解いていく。82歳のベテラン左官職人が復元した"古来の土壁"。その完成までには、なんと3年以上の工程が必要だった。 番組では、薬師寺・大講堂の復興工事を追いかけながら、伝統技法に挑戦する職人たちの生きざまに密着。1300年前の奈良時代にタイムスリップする職人たちとともに、薬師寺に埋め込まれた建築技法の謎に迫る。
今年になって、著名人のがんの告白、がんによる死が世間の話題となっている。音楽家でプロデューサーのつんく♂さんの喉頭がんによる声帯全摘出。人生を狂わしてしまうがんに対し、日本人はどのように闘ってきたのだろうか? 名司会者だった大橋巨泉さん、女優でタレントの原千晶さん、そして女優の沢田雅美さんは、がんを告白し、またがんと向き合って闘っている。特に大橋巨泉さんは、この番組の放送直前に肺がんの手術を受け、その後のインタビュー取材にも答えてくれた。原千晶さん、沢田雅美さんも闘病生活と家族の支えをカメラの前で語ってくれた。さらに、最愛の妻が乳がんとなった、ジャーナリストの田原総一朗さんは、「心中、自殺まで考えた」と当時の心境を激白。闘病生活での「スキンシップの重要性」をあげている。 「闘病」といっても、手術や、抗がん剤治療、放射線治療を受けながらの闘病と、治療をしない闘病がある。抗がん剤の副作用でボロボロになりながら生き続けるより、ありのままの生活で、ありのままの姿でがんと向き合う女性もいる。 さまざまな見地からがんを分析した今回の「ザ・ドキュメンタリー」。もしも、あなたががんになったとき、一体どんな向きあい方を選ぶだろうか。
沖縄にとっての「6月23日」をご存知ですか?この日は、沖縄県が制定している「慰霊の日」です。 1945年の6月23日は太平洋戦争「沖縄戦の組織的戦闘が終結」した日とされ、沖縄では国の機関以外は休日となります。しかし終戦から70年を経た今も、県民の闘いは続いています。世界一危険といわれる「普天間基地問題」と米軍基地新設に揺れる「辺野古基地移設問題」です。先祖の代から、命をつないで来た海を守ろうとする地元の人々と、国策の大きな波に呑み込まれようとする同じ地元の人たち。厳しい選択を迫られ、二分化される沖縄。その声を執拗に追いかけ、2012年と2014年に放送した琉球朝日放送のドキュメンタリー作品を今だからこそ紹介したいと思います。さらに、これまで語られることのなかった沖縄戦秘話を発掘取材。戦後70年を迎えた沖縄の「イマ」の表情とともにリポートします。 2012年、沖縄の米軍基地問題をテーマにした報道ドキュメンタリー番組「標的の村~国に訴えられた東村・高江の住民たち」は、国家が弱い立場の住民を訴えるというスラップ訴訟の実態を伝える衝撃作として大きな反響を呼び、後に映画化もされました。また2014年には、基地新設問題で対立する辺野古の実態を追ったドキュメンタリー番組「裂かれる海~辺野古 動き出した基地建設~」が、第52回ギャラクシー賞・テレビ部門の大賞に選ばれました。この2作品は今、私たちに何を訴えかけているのでしょうか…?70年前の沖縄と今の沖縄の問題を繋ぐものとは何か…?その源流に迫ります。 その沖縄には、13歳でデビューした日本人最
太平洋戦争で、様々な悲話が残されているのが"特攻隊"の兵士たちです。 死を覚悟して戦地へ向かった兵士たちの中には、家族や友人、恩師に向けてのメッセージを録音して、ラジオ番組で紹介される人もいました。そしてそれは、まさに彼らの最後の肉声…となったのです。死を覚悟した兵士たちは、どのような心境を語ったのか?どのような声を発していたのか?果たして最後のメッセージとは…? ラジオ番組で放送された音源から、兵士たちの心の奥底にあったであろう、"話したくても話せなかった"真のメッセージを読み解きます。 また一方で戦局が悪化すればする程、ラジオは無くてはならない情報ツールでした。 戦意高揚を図る番組も少なくなり、アメリカ軍による空襲情報を知らせる内容などに変化していったのです。中には、「B-29爆撃機とP38戦闘機の爆音の違いとその時の避難について」を知らせる番組までありました。国民にとって欠かすことができなかったラジオからの情報とは、どのようなものだったのでしょうか? さらに日米それぞれが"最新メディア"ラジオの電波を軍事利用。相手国の戦意を喪失させる目的で、嘘の情報や怪情報を電波に乗せるなど熾烈な謀略合戦を繰り広げました。"見えない爆弾"とまでいわれたラジオを利用した情報戦の真実とは? そして戦争の終わりを天皇自らが告げた「玉音放送」も、ラジオから流れた音声でした。 しかし、その放送直前には、一部将校たちによる「玉音放送」を阻止しようという決起行動もありました。今回の番組では、人々に"情報を伝える"はずのラジオ電波を巡って繰り広げられた、戦時中
「全国高等学校野球選手権大会」は1915年(大正4年)から始まり、今年100年目を迎える。昔から日本人の心に深く定着してきた国民的イベントだが、1941年の第27回大会の地区予選途中から1945年まで、戦争で中止されていた時期がある。だが開催中止の翌年、1942年の夏、太平洋戦争の戦時下で、文部省が朝日新聞社から開催権を奪って主催した「幻の甲子園」があったことは、ほとんど知られていない――。軍事色が強く、記録にはカウントされていない幻の大会だ。そして、幻の大会で優勝した徳島商業の名前は、記録上なかったことになっている。 野球を愛した球児たちも、その後、出征して戦死したものが多く、生き残った球児も現在90歳。二度と戦争の悲しい歴史を繰り返さないためにも、彼らの声を届けたい…。 「幻の甲子園」には16校が出場した。今回、優勝した徳島商業高校、準優勝の平安高等学校、ベスト4の海草中学校(現在の和歌山県立向陽高等学校)、広島商業高等学校の4校にスポットをあてる。それぞれの学校の現役の高校生に、元球児たちをインタビュー取材してもらい、「70年前の青春」を掘り起こしてもらう。 過酷な環境下で、野球を希望に生き抜いてきた元球児の方たちと出会い、数々の貴重な証言を得ていく中で、現在の17歳は果たして何を感じるのだろうか?
優であり、喜劇人であり、歌手であった"キング・オブ・エンターテイナー"こと植木等。僧侶の道を志したが、クレージーキャッツとしてスターとなり、10年間で30本という異常なハイペースで"クレージー映画"が作られた。映画における圧倒的なキャラクターから「日本一の無責任男」と呼ばれ、歌えば「スーダラ節」が瞬く間に大ヒット! 高度成長期の日本人は、無責任男の明るさ、破天荒さに、"もう一人の自分"と出会った。社会が目まぐるしく変化していた昭和30年代。池田内閣が「所得倍増計画」を唱えるが、スクリーンの中の男はずっと変わらず≪C調≫であり続けた。 当時、サラリーマンの心の支えとして存在した植木等。昭和高度成長期、植木等が演じ続けた無責任でスーダラな男の実像とはどんな男だったのか。植木が岐路に立つとき、いつも指標になっていたのは父・徹誠さんの存在があったという。"日本を元気にした男"から、忘れかけてしまった日本人の心意気、父親たちの物語をひもとく。
お笑い芸人ピース又吉直樹、第153回芥川賞を受賞。このニュースは日本中を衝撃と共に駆け抜け、受賞作『火花』は、発行部数200万部を大きく越える大ベストセラーとなっている。又吉と『火花』に脚光が集まる中、同時にクローズアップされたのが、日本を代表する文学賞、芥川・直木賞と、不況にあえぐ日本の出版界の現状であった。 昭和10年、菊池寛によって設立された芥川・直木賞。およそ80年の歴史を誇り、誰もが知るビッグネームが受賞者として名を連ねている。一方、90年代末から始まった出版不況を背景に、本屋大賞が誕生。売れる本を世に送り出す、という新たなコンセプトの元、出版界に新たな旋風を巻き起こした。文学性か、売れる本か。議論が分かれる中、又吉の芥川賞受賞は、出版界に大きな一石を投じた。ただ純粋に本を愛する男、又吉直樹は、本の世界の救世主となるのか。
結成59年となった今年、長女・歌江さん(86歳)は数多くの痛みを背負っていました。 体を酷使してきた漫才人生で、思い出すたび悔やまれるのが戦前に使用したヒロポン。 今でいう麻薬の一種であるヒロポンの使用で、人気があった"十代の少女姉妹漫才コンビ"は離ればなれの生活になってしまいます。 戦後は、次女・照枝と三女・花江が漫才コンビを組みますが、鳴かず飛ばず…。 やがて、ヒロポンの中毒から立ち直った長女が、再び舞台へ。 こうして、三姉妹の漫才ユニット"かしまし娘"が、誕生します。 戦前は、合法的に市販されていたヒロポン。三姉妹の生い立ちから、 ヒロポンに悩まされ続けた壮絶な少女時代、そしてかしまし娘誕生の秘話を、 本人や関係者の証言で振り返ります。 また、今も歌われる「♪ ウチら陽気なかしまし娘~ 誰が言ったか知らないが~」という"かしまし娘"のテーマ曲。当時は、大人から子どもまで誰もが知っていたこのテーマ曲の誕生とヒットの秘密が、明らかに…。 なんと世界のヒット曲に共通する"ある音楽のマジック"が、隠されていました。 さらにテーマ曲を弾いていたギターを、十数年ぶりに押し入れの奥から出してみると…。 結成後は、順調に舞台やテレビで活躍を続けたかしまし娘。 ところが、結成26年目を迎えた時に突如活動休止を宣言。 三姉妹がそれぞれの道を歩み始めます。一世を風靡した"かしまし娘"の突然の休止…。 その真相が初めて語られます。そして今回、それぞれの道で今も多忙の三姉妹が久しぶりに再会。3人で思い出の舞台へとあがります。 芸能生活83年を迎える長女、そしてかしまし娘の結
「極地から地球が見えてくる」。 朝日新聞の中山由美記者は、こう話す。 12年にわたり南極と北極に通い続けてきた中山記者は、日本で過ごしているとあまり気付かない地球環境の変化を、肌で感じてきた。今回、中山記者が長年取材してきた動画記録から、それを紐解く。 古くから人類が憧れてきた最果ての地、南極と北極。見るものをとりこにし、"光の奇跡"と呼ばれるオーロラが空に広がる極地。希少な動物が数多く生息する北極。マイナス90℃近くにもなる氷の大陸・南極。その極限の世界には、今も手つかずの自然が残されている。 そんな地に魅せられ、通い続けるのは、朝日新聞の記者・中山由美。女性記者として初めて南極観測隊に参加し、南極に2回、北極は4回も訪れ、極地取材のスペシャリストとして活躍している。これまで誰も取材できなかった場所や人に出会い、多くのスクープを報道、数々の賞を受賞してきた。 北極ではグリーンランドの氷河が縮小を続ける。溶け出した水は滝のように流れ、氷河をえぐり深く巨大な穴「ムーラン」を作りだす。南極では、紫外線を多く通すオゾンホールが上空に現れ、二酸化炭素濃度の上昇もとらえている。 人間社会から遠く隔絶された地で地球環境を探る、その最前線を中山記者のカメラは記録してきた。 さらに、南極は地球や宇宙の歴史をも私たちに教えてくれる。観測隊は、映画「南極料理人」の舞台となった「ドームふじ基地」で、72万年前の氷を掘削。内陸の山地では、太陽系誕生を知る手がかりとなる隕石を1万7千個以上も採集。そこには、氷に閉ざされた大陸だからこそ知ることの
1940年の東京オリンピック開催が決まった時、誰もが明治神宮外苑地区がメイン会場だと考えていた。その中でただ1人反対したのが、東大安田講堂を設計した建築家・岸田日出刀だ。ベルリンオリンピックを視察した岸田は自ら写真を撮り、帰国後はパンフレットを作り、反対を唱えた。そして代替案として、陸軍が所有する代々木練兵場をメイン会場の候補にあげる。この時、岸田37歳。陸軍の猛反発を受けるも臆することなく、自らの主張を訴えた。結局、駒沢ゴルフ場だった場所がメイン会場の候補となるが、日中戦争勃発で開催中止となった。 1958年、1964年の東京オリンピック開催が決定。岸田は、オリンピック施設の建設責任者となった。当時60歳。建築界のドンと呼ばれた男は、因縁の代々木に自分のまな弟子・丹下健三を任命し、丹下を世界の舞台に押し上げた。 神宮外苑地区には、1958年3月に国立競技場が完成していた。設計は、建設省の角田栄(しげる)。アジア大会のために設計された会場だが、周囲の景観に配慮したものだった。しかし、東京オリンピック開催決定で、この場所をメイン会場とするために拡張工事が行われた。設計はもちろん角田。角田も岸田同様、この地区の景観の大切さを認識していた。苦悩する角田はひとつのアイデアを考えついた。 東京開催が決定した頃、東京は深刻な問題が持ち上がっていた。都市交通だ。慢性的な交通渋滞の上に、オリンピック選手や国内・外の観光客を大量輸送する道路もない。東京都建設局にいた山田正男は、この時を絶好のチャンスと考えた。強烈な個性とパワーで「
哀愁を帯びた「島倉節」で数多くのヒット曲を世に送り出し、昭和の歌謡史にさんぜんと輝く足跡を残した島倉千代子。しかし、その人生には常に光と影がつきまとった。16歳でデビュー、失明の危機、結婚離婚、借金トラブル、がんとの闘い、そして旅立ち…。 今回、自宅で開かれたホームパーティーでのプライベート映像をテレビ初公開! 気心の知れたスタッフばかりとあって、そこには素顔の島倉千代子がいた。てきぱきと場を仕切る島倉、ステージ上の愛らしい乙女のイメージからは想像がつかない姿だった。 さらに、ヒット曲「東京だョおっ母さん」「人生いろいろ」誕生秘話や、作曲家・船村徹との出会い、先輩・美空ひばりへの思いなど、島倉千代子の歌人生を余すところなく紹介する。
昭和を代表するエンターテイナー、坂本九。戦後日本の歴史でただ1人、「ビルボード全米1位」という快挙を成し遂げ、敗戦の傷跡が残る日本人に、勇気と誇りを与えてくれた。しかし、老若男女に愛される国民的スターが、そのトレードマークのはじけるような笑顔の陰で苦悩を抱えていたことはあまり知られていない。「優等生の九ちゃん」というイメージからの脱却、ヒットチャートへの焦燥感…。そんな日々の中で出会った、ハンディキャップを持つ人々のひたむきな姿に、男は改めて「歌」への思いを強くする。"人と人の心をつなげる「うた」を歌いたい…"。心をすり減らしながらも、笑顔を失わず、歌い続けた九ちゃん。だが、その夢はあまりにも唐突に奪われてしまう。 番組では、「エンターテイナー 坂本九の夢と素顔」に焦点をあて、その激動の人生をつむぐ。そして、今まであまり触れられることのなかった九ちゃんの音楽的才能も、専門家のインタビューを交えて検証。なぜ『上を向いて歩こう』は言葉の壁を超え、海外でも愛されたのか?解き明かす。
「とにかく歌舞伎を観に来てほしい。生で観てもらえれば絶対に面白いと思ってもらえる。」 2014年11月から密着を始めたカメラに、歌舞伎役者・六代目片岡愛之助は何度も繰り返した。 テレビでの活躍を糧に、今新たな境地を目指して本業に邁進する愛之助。 その目には、歌舞伎の、そして自分の未来が、きっちりと見えていた。 テレビドラマ「半沢直樹」で一躍ブレイクした片岡愛之助。本業は歌舞伎役者である。ドラマをきっかけに、初めて歌舞伎を観に来てくれる人が増えたことをとても喜んでいる。 「敷居が高いって思われがちでしょ?きっかけはなんでもよくて、この人が歌舞伎やってるんだ、じゃあ観に行ってみよう、ととにかく歌舞伎を観に来てもらえるのがありがたい。」 元々、歌舞伎とは関係のない船のスクリューのプロペラを作る町工場の長男が、初めて観た歌舞伎の世界に「かっこいい!」と心酔したのがことの始まり。持って生まれた素質と数多の幸運に恵まれ、1992年19歳で大阪、上方歌舞伎の名家、片岡秀太郎の養子となり、六代目愛之助の名を継ぐ。最初は自己の研さんに必死だった愛之助だが、主役を務めるチャンスが巡ってきて一つの思いに気が付いた。「もっと歌舞伎を観てもらいたい。」 同世代の役者や未来を背負うべき後輩たちが上方にはほとんどいない。東京の歌舞伎座のように年間通して歌舞伎の公演が上方ではできていない…。もっと歌舞伎を観てもらうため、越えるべき壁はどんどん現れる。今こそ自分は何を成すべきか。 テレビでもラジオでもメディアにはどんどん出て行こう。もっと片岡愛之助を、歌舞伎を、
太平洋戦争の終戦直後、皇室そのものの存続が危機にさらされた時がありました。 東京裁判で昭和天皇が訴追され、戦争責任を問われる可能性があったのです。 それは、天皇制そのものの存続の危機でもありました。 そんな中、天皇制を守るため連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに 秘密工作を行った人物こそが勇さんの父、鎌田銓一(かまたせんいち)氏でした。 陸軍中将として敗戦を迎えた彼には、もうひとつの顔がありました。 戦争前にアメリカに留学、アメリカ軍の大隊長として勤務していたことがあったのです。 しかも、その大隊を束ねるトップにいたのが誰あろう、後の連合国軍最高司令官となる ダグラス・マッカーサーでした。 戦前にマッカーサーとの知遇を得て信頼されていた鎌田氏は、終戦後、急ぎ満州から帰国。 厚木に降り立つマッカーサーを出迎える大役を担うことになりました。 実はこの時、鎌田氏には重大な密命が下されていました。 「天皇制を護持せよ!」 マッカーサーとの人脈を最大限に生かして、「戦後日本に天皇制を残すことは、国家再生の 為に不可欠であることを連合国軍に認めさせる」というのが、鎌田氏に託されたミッション でした。鎌田銓一とマッカーサー。2人の間にはどのようなやりとりがあったのでしょうか。 鎌田機関による秘密外交の実態に迫ります。 結果として、昭和天皇は戦犯に問われることなく、天皇制も残されました。 その後、新憲法の下で生まれ変わった天皇制を守り続けて来られた天皇陛下と美智子さま。 さらに、それを引き継がれている皇太子殿下と雅子さま。 様々な困難
巨星堕つ。『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるさんが先月30日に逝去。独自の世界観を貫き、確固たる地位を築いてきた重鎮の訃報に、漫画界は悲しみに包まれた。そこで今、昭和の時代に、漫画を娯楽から文化へと昇華させた、天才漫画家たちの足跡を振り返る。そこには大いなる夢と希望、そして苦悩があった。 昭和28年、東京豊島区の木造アパート「トキワ荘」に手塚治虫が入居。ほどなくして、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A)など、今にその名をとどろかせる漫画エリートたちが集結し、やがて訪れる漫画黄金時代の礎を築いた。番組では、手塚治虫、赤塚不二夫の家族や、昭和の漫画界を知り尽くす松本零士にインタビュー。激動の昭和漫画史を、その作品や証言とともに振り返る。そして今、世界に発信されるようになった日本の漫画やアニメの現状と、漫画の果たすべき未来の役割について考える。
映画やテレビを通じて時代や権力と闘い続けた反骨の男、大島渚。 その3年目の命日の前日にあたる2016年1月14日に、BS朝日では開局15周年の特別企画として大島渚を3時間スペシャルで特集します。 2000年12月のBS朝日開局記念番組として放送した、大島の闘いの歴史を辿ったドキュメンタリーと、2008年にテレビ朝日で放送した、妻・小山明子とともに壮絶なリハビリに挑んだ日々を綴ったドキュメンタリー。今回はこの2つの作品を軸にしながら、一方で大島渚の原点ともなる少年期の戦争体験を書いた絵本誕生の裏側を取材、大島の人生に隠されていた知られざる側面にも新たな光を当てます。 番組ナビゲーターは、大島渚の盟友、ジャーナリストの田原総一朗。 大島渚を兄と慕った田原は「朝まで生テレビ」で、ともに闘った日々を振り返ります。 「大島渚はテレビで何を伝えたのか…?」 メディアの萎縮が叫ばれる今だからこそ、大島渚のテレビ論、表現者の役割と覚悟に耳を澄ませたいと思います。
大正、昭和、そして平成と生き抜く女性は、今もなお三味線と都々逸などを舞台で披露している。その人は〝芸人〟内海桂子さん、93歳。終戦後の当時まだ〝女性漫才コンビ〟が珍しい時代に、内海桂子・好江でコンビを結成。28歳だった桂子さんはすでに2児の母だった。一方、コンビを組むことになった好江さんは14歳。倍ほどの年齢差があり、ひとたび舞台を降りれば2人はコンビではなく師弟関係。稽古を積み、テンポの良い"江戸っ子漫才"で、やがて人々を笑いの渦に引き込んでいく。そして結成から30年後、漫才界では初となる「芸術選奨 文部大臣賞」を受賞。名実ともに、漫才界を代表するコンビとなった。 さらに、桂子さんは64歳の時に出会った24歳年下の男性と交際。その13年後、周囲の反対を押し切り晴れて夫婦となる。今ではその年下の夫がマネージャーに。93歳の今も、24時間、夫と離れる時はない。 今回は、数々の困難を乗り越えてきた、内海桂子さんの波乱万丈の人生を紹介する。
1年に1度、おじさんたちが甲子園で白球を追いかける大会がある――2004年から始動した「マスターズ甲子園」。全国の元高校球児たちが世代を超えて、出身校別に同窓会チームを結成。全員共通の憧れであり、野球の原点でもあった「甲子園球場」を再び目指そうとする大会だ。2015年には、中井貴一、柳葉敏郎、波瑠ら豪華出演陣によって映画化もされ、注目を浴びたマスターズ甲子園。12回目となる2015年大会には、映画さながらのドラマがあった…。 甲子園とはまったく縁のなかった大阪の弱小野球部OBは、高架下の狭くて、でこぼこのグランドから予選大会突破を目指す。沖縄からは、大会最年長となる84歳の投手が夢の舞台・甲子園へ。広島の野球名門校OBは、現役時代にレギュラーになれなかったメンバーが中心。それぞれの思いを胸に、仲間との絆、家族との絆を再確認しながら、甲子園を目指すオヤジたちの熱い姿に密着した。
2011年3月11日、東北地方を襲った未曾有の大震災は人々から、愛する家族だけでなく、家屋や農地、漁場など生活の糧を奪い去ってしまった。 番組は、震災後、被災地と向き合ってきた中村雅俊が5年目の今を見つめる。 津波の被害を思いこさせる姿のまま残る岩手県大槌町の旧庁舎。解体か?保存か?痛ましい記憶の保存をめぐって揺れる住民たちの心の内に迫る。 住民の10人に一人が犠牲となった宮城県野蒜地区では、被災地を訪れた人たちにあの日の真実を伝えるため、自らのつらい体験を語り始めた女子高生たちの姿を追う。 震災で団体存続の窮地にたたされた仙台女子プロレスリング。被災者のために闘い続けることで、 どん底から這いあがった伝説のレスラーと被災者の絆を描く。 あの日を忘れずに未来に向かって歩き出した人たちの姿を通して被災地の今を紹介する。
“昭和の怪物俳優”といわれた勝新太郎、今年で生誕85周年を迎える。一年間の飲み代が一億を超えたという豪遊と巨額な借金、それは伝説なのか、真実なのか…? 映画史に残る型破りのヒーロー「座頭市」の生みの親。その座頭市と共に生き、悩み、そしてその座頭市という怪物に飲み込まれていく勝新太郎。全身全霊を映画に捧げた男。 親友・石原裕次郎との別れ、松平健への愛のむち、最愛の妻・中村玉緒への繊細な心遣い、初公開となる名優・松田優作への限りない愛情、さらに、天国の勝新太郎に贈る津川雅彦の伝言。そして、初めて明かされる孤独な勝新太郎の姿、その孤独を支えた天才画家・バルテュスとの友情など…。 俳優としての孤高の姿がスリリングな人生と相まって、人間・勝新太郎の全貌を映し出す。天賦(てんぷ)の才能と共に多くの人々に愛された勝新太郎の、破天荒伝説の真実に迫る。
日本の首都東京の下町がたった一夜、しかも2時間で焼き尽くされた、1945年3月10日東京大空襲。10万もの人たちの人生が犠牲になりました。そして生き残った多くの人生も大きく狂わされました。もはや人と言う尊厳さへも失われた形で積み上げられた数多くの屍には、それぞれの人生が確かにそこに生きていました。 それから70周年を経て、今年は71年目。あの悲惨な出来事を話して下さる方々が年々少なくなってしまっています。番組では、あの日何が起き、人々はどう生き抜いたのか。今なお様々な思いを抱えた人や戦火の傷跡が残る場所を、若手俳優の大野拓朗が辿り、その眼を通して実感あるものとしてお届けします。家族6人が犠牲になった海老名香葉子さん、母の決断に命を救われた毒蝮三太夫さんをはじめ内海桂子さん、桂由美さん、野村万作さん他、生と死が隣り合わせであった壮絶な光景、貴重な体験談を語ります。 今なお癒えることのない空襲の傷跡から多くの事を感じ、思い、そして次世代へ。戦争の悲劇を繰り返さないために、いま私たちに出来る事とは何かを問いかけます。
昭和11年1月2日、東京の小石川生まれ。本名松岡克由(まつおかかつよし)。 小学校5年生の時、伯父に連れられて行った「浅草松竹演芸場」で、初めて生の落語を見てその話芸に心奪われ、「ずっと寄席に居たい、寄席にずっと居るためには落語家になるしかない」という思いが心に芽生えます。 その夢をかなえ、16歳で柳家小さんに弟子入り。柳家小よしという名前を与えられ修行に励みました。 昭和29年には、二つ目に昇進。名前も柳家小ゑんとなります。 談志は落語だけにとらわれず、アメリカンジョークを習得してキャバレーや ストリップ劇場の幕間でスタンダップコメディーとして披露するなど多彩な才能を開花させラジオやテレビにも引っ張りだこになりました。 しかし、そんな談志を襲った屈辱…。 入門が早かった談志より先に、弟分だった古今亭志ん朝が真打に昇進してしまったのです。談志は古今亭志ん朝に「辞退しろよ!」と迫り、この悔しさと落語協会への不満をのちのちまでひきずります。 24歳のとき、フィアンセがいた女性に猛アピールし略奪結婚。 この女性が生涯の伴侶となる、則子(のりこ)さんでした。 その後、タレント議員ブームにのり、参議院議員に当選するも、酒に酔って会見を行ったため非難が殺到して辞任。その破天荒ぶりが話題となります。 さらに、真打昇進試験への不満をきっかけとして落語協会を脱退。 立川談志を頂点とする家元制の立川流を創設すると、立川志の輔、志らく、談春らを育て上げます。 晩年は病との闘い。1997年 食道ガン、2008年には喉頭がんを患います。 ガンを完治させるためには、落語
毎週金曜日、国会前で開催される反原発デモ。そこに参加するのは、家族連れから90歳の老人まで幅広い層。しかし、そのデモの列をよく見てみると、その多くが60代から70代のシニア世代である。60、70年安保を経験、挫折した彼らは再び国会前に集結した。番組では60年安保に参加したジャーナリストの田原総一朗や、その後の音楽人生に影響を与えた歌手の加藤登紀子など時代の証言者へのインタビューを交えながら、シニア世代が再び立ち上がった背景を検証していく。 毎週金曜の反原発デモに5年間、1日と休まず、通い続ける90歳の男性がいる。なぜ彼は通い続けるのか?そこには彼自身しか語ることのできない青春時代の「ある記憶」があった。 アーティストの坂本龍一から「(この国の)希望」と評された学生団体「SEALDs(シールズ)」。ツィッターなどのSNSを利用しながら彼らが確立した現代版デモとは?ファッショナブルな若者たちがなぜ「反戦」を叫ぶことになったのか?しかし、安保法制も施行された現在、シールズが打って出る次なるアクションとは? 2016年現在、日本各地では新たなデモが続々生まれている。「保育園落ちた日本死ね」ブログへの共感から始まった「待機児童問題」は全国各地で様々なデモとなり国会での論戦も白熱。その中である高校生が「保育士目指しているの私だ」デモを一人で企画し立ち上げる。準備も不十分なたった一人の挑戦は果たして成功するのか!?それ以外にも日夜、ヘイトスピーチの抗議活動や労働問題に参加する大学生などに密着。なぜ人は路上で声を上げることをやめないのか?そして彼らの声が国会へ
1986年4月26日にチェルノブイリ原子力発電所で起きた史上最悪の事故。40万人以上が移住を余儀なくされ、見えない放射能は人々の肉体をむしばみ、多くの命を奪い去った。 今回、歌手のクミコがウクライナを旅し、当時を知る人々を訪ねた。チェルノブイリと福島両方の事故を経験した数奇な運命を持つ女性、そして、事故の恐怖を赤裸々に語る元原発作業員、今も居住制限区域の原発30km圏内に暮らし続ける老人らと出会っていく。 彼らの証言から見えてくる、今も人々を苦しめるチェルノブイリの真実とは…。 事故から30年、私たちはそこから何を学び、福島の未来にどう向き合っていくべきかを考える
上方芸能の重鎮・西川きよしは71歳。去年2016年は彼にとってさまざまな事を考えさせられる年だった。元日に最愛の母を亡くし、その直後自らの体にも異変が…。ガンの手術という経験を経て、見事病魔を克服。その復活が各メディアでも大きく報じられた。 2016年はもう一つ大きな意味を持つ年でもあった。それは“日本一おもしろい”といわれた伝説の漫才コンビ「横山やすし西川きよし」が結成して50年。今も現役で舞台に立つ西川きよし。そして、短い人生を駆け抜けた横山やすし。輝かしいコンビの歴史にはたくさんの出来事があった。栄光の受賞、謹慎騒動、選挙出馬…2人の漫才はその度に研ぎ澄まされ、その結果、「ドキュメンタリー漫才」を確立させたのだ。番組では、20世紀最高の漫才師とうたわれた「やすきよ」誕生の瞬間から、アクシデントや事件を乗り越えて成長を続けるやすきよ漫才の変遷を、数々の貴重な映像と時代の目撃者の証言から迫っていく。いまだから話せる西川きよしの真の思いとは…。 2人をよく知る、演芸界を支えてきた澤田隆冶さんをはじめ、仕事でもプライベートでも親交があった久米宏さん、林家木久扇さん、明石家さんまさん。また、横山やすしの実の娘である相馬光(旧姓木村)さん、そして長男であり俳優である木村一八さんも父・やすしについて、20年間黙っていたという真実をこの番組で初めて語る。 やすきよの本当の姿がついに明らかになる!
大正9年熊本県球磨郡大村(現・人吉市)に、8人兄弟の長男として生まれた川上哲治。貧しいながらも母のためアルバイトで家業を支えつつ野球に打ち込んでいた。 奨学金を受けながら通った、野球の名門・熊本工業学校(現・熊本工業高校)では、投手として2度の甲子園出場を果たしたが、いずれも準優勝の苦杯を味わった。 巨人軍に入団した川上は、打撃の神様と称され「球が止まって見える」という名言も残した。「名選手、必ずしも名監督にあらず」という通説を覆し、監督としても球史に残る日本シリーズ9連覇の偉業を達成。 今では当たり前のリリーフ投手の起用や、緻密なサインプレーを導入し、徹底した管理野球で「勝つ野球」の在り方を示した知将である。 その裏で、愛する家族に襲いかかった知られざる最大の危機を乗り越え、指揮を執っていた川上哲治。 番組では王貞治氏、そして長嶋茂雄氏にインタビューを敢行。 「ON」は川上哲治という人間をどうとらえていたのか? さらに柴田勲氏、黒江透修氏らV9レギュラーメンバー、さらに数々の名勝負を繰り広げた星野仙一氏、野村克也氏などライバルたちの証言から浮き彫りにし、9連覇を成し遂げた川上ならではの人心掌握術に迫る。
「憎らしいほど強い」といわれた昭和の大横綱・北の湖。21歳の若さで横綱に昇進。数々の角界の記録を塗り替えていった。特に、先輩の横綱・輪島と繰り広げた激闘の歴史は「輪湖(りんこ)時代」といわれ、いまだに語り草となっている。しかしその一方で、「強すぎておもしろくない」と、アンチ北の湖の相撲ファンも多かった。 横綱・北の湖、そして、引退後「一代年寄」となった北の湖親方を良く知る人々は、その温かい人間性を口々に証言する。「本当のおやじのようだった」「協会に命をかけていた」「子煩悩」…。今回、とみ子夫人も、夫としての北の湖親方について証言。理事長の重責を負いながらの、壮絶な闘病生活についても語ってくれた。 番組では、過去の取り組み映像をふんだんに紹介しながら、大横綱・北の湖の強さを検証。さらに、理事長として残した功績と、まさに大相撲に命を捧げたその生きざまに迫る!
日本の夏の風物詩といえば高校野球。頂点を目指して、高校生活の全てを懸け野球と向き合ってきた球児たち…。甲子園では毎年多くのドラマが生まれ、見ている者の胸を熱くする。番組では、そんな高校野球を音楽で支えている“吹奏楽応援”にスポットを当てる。現役で100万人、経験者を加えると1000万人はいるといわれている吹奏楽人口。日本は世界でも有数の吹奏楽王国で、その歴史をひもとくと、学校の部活動として盛んな吹奏楽部は、そもそも野球応援のために作られたという学校が多い。高校野球の歴史は、高校吹奏楽の歴史でもある。今回は、地方大会から注目校の5校に密着取材し、野球と音楽に青春を燃やした高校生の熱い夏をドキュメンタリーとして紹介する。 ・千葉県習志野市立習志野高等学校。吹奏楽コンクール全国大会で金賞を22回も獲得した吹奏楽の強豪校。熱血先生と部員200人が奏でる「美爆音」の秘密に迫る。 ・栃木県作新学院高等学校。野球部3年に兄を持つ吹奏学部1年の妹。兄、妹、そして家族で目指す甲子園への道を描く。 ・愛知県東邦高等学校。今大会、野球部の地区大会準決勝と吹奏楽部のコンクールの日程が重なった。試合当日は、なんと野球部の女子マネジャーが1人トランペットで選手たちを応援! その裏には、女子マネジャーと吹奏楽部員の親友2人の約束があった。 ・吹奏楽部の草分け的存在、奈良県天理高等学校。さらに、33年ぶりの甲子園出場を果たした尼崎市立尼崎高等学校にも密着。 果たして、今年はどんな名勝負が繰り広げられるのか? アルプススタンドではどんな青春ドラマ