260年続いた幕藩体制を倒して、日本には「明治」近代国家が誕生した。その国は、帝国主義まっただ中の西欧列強という「大人」たちに囲まれた「少年の国」であった。 四国・伊予松山に三人の男がいた。後に明治日本が直面した最大の危機「日露戦争」において、大きな役割を担うことになる秋山好古(阿部寛)・真之(本木雅弘)兄弟と日本の近代文学を代表する正岡子規(香川照之)である。三人の主人公は松山の人々とその風土の中で育ち、やがて東京へと旅立って行く。後年、そろって帰郷した三人は、松山城を背に記念写真に納まる。 明治16年(1883年)、好古は東京の陸軍大学に入学。その年の6月、自由民権運動の熱弁をふるっている子規に妹の律(菅野美穂)が手紙を持ってくる。東京の叔父から上京を促す手紙だった。喜び、すぐさま東京へ。 松山に取り残されたような複雑な心境の真之のもとにも好古から面倒をみるとの手紙が届く。真之は好古の下宿で暮らし始め、子規の後を追うように神田の共立(きょうりゅう)学校に入学、大学予備門を目指すことになる。 そんな、ある日、真之と子規は、共立の英語教師・高橋是清(西田敏行)の誘いで横浜にくり出した。そこで、二人は最新鋭の巡洋艦「筑紫」を目の当たりにし、その威容に圧倒される。そんな二人に、高橋は日本が紳士の国になるべきことを説くのだった。
明治17年(1884年)、上京から1年。真之(本木雅弘)と子規(香川照之)が上京した東京は、文明開化の奔流のただ中にあり、伊予松山とは別世界であった。 9月、真之と子規はそろって大学予備門に合格。報告を受けた好古(阿部寛) は座右の銘である福沢諭吉の言葉「一身独立して、一国独立す」をもって、自分を甘やかすな、と諭す。そこへ下宿先の娘・多美(松たか子)がお祝いだと言って大きな鯛をもってきたので、気まずくなるが・・・。 好古が在学する陸軍大学校では、児玉源太郎(高橋英樹)がドイツから教師として、智謀神ノゴトシとうわさされるメッケル少佐(ノーベルト・ゴート)を招へい。日本の陸軍はドイツ式となっていくのだった。 春となり、子規の妹・律(菅野美穂)が松山から出てきて、結婚の予定を打ち明け、真之に子規のことを託す。やがて真之と子規は予備門で塩原金之助(後の夏目漱石・小澤征悦)と仲良くなったり、野球を始めたりするが、自分たちの将来について悩む。坪内逍遥に感銘し文学を一直線に目指す子規を見て、真之は「自分は何ができるのか」という 問いに直面。好古の座右の銘を深く考えた真之は子規と袂を分かち、軍人になることを決意、好古に告げる。 明治19年10月、真之は海軍兵学校に入学し、自分の道を探し始める。ここで、1学年上の広瀬武夫(藤本隆宏)と親しくなる。翌々年、兵学校が江田島に移り、真之は休暇で松山に帰省。父・久敬(伊東四朗)、母・貞(竹下景子)から律が離縁されたことを知らされる。江田島に帰る真之を三津浜の船着場に追いかけてきた律は離縁の訳を明かす。
西欧列強の荒波の中に漕ぎ出した「少年の国」明治日本もまた、主人公たちと同じように、世界という舞台で悩んでいた。 明治22年(1889年)、大日本憲法発布、日本は近代国家の基礎を固め始めた。この年の夏、子規(香川照之)は病気療養のため松山に帰郷。真之(本木雅 弘)も江田島から帰省し、二人は3年ぶりに再会。子規は俳句の道をいくと打ち明ける。 明治24年5月、来日中のロシア皇太子ニコライ2世が暴漢に襲われ、ヨーロッパの大国ロシアとの間に緊張が走る。その頃、海軍兵学校を卒業し海軍にいた真之(本木雅弘)は 後の連合艦隊司令長官となる東郷平八郎(渡哲也)と出会う。 フランスから帰国し陸軍士官学校の馬術教官になっていた好古(阿部寛)は、児玉源太郎(高橋英樹)の勧めで多美(松たか子)と結婚。そして二人は海軍、陸軍でそれぞれに臨戦態勢に入るのだった。
明治27年(1894年)。南下政策を推し進めるロシア、自らの属国と自負する清国、新たに地歩を築きたい日本、その三国の間で朝鮮は揺れていた。そこへ起きた、いわゆる東学党の乱に端を発して、日本と清国の間に戦争が勃発する。好古(阿部寛)は、乃木希典(柄本明)らとともに出征し、旅順要塞の攻撃に参加。好古は率いる騎兵をもって敵情を克明に探った。その報告をもとに総攻撃が開始され、わずか一日で旅順は陥落。 翌年、新聞「日本」の記者として働く子規(香川照之)は主筆の陸羯南(佐野史郎)に懇願して従軍記者となり、清国の戦地に赴くが、すでに日清両国政府の間では講和の談判が始まっていた。破壊された村々を回るなか出会った軍医の森林太郎(後の森鴎外・榎木孝明)と戦争について語り合う。真之(本木雅弘)もまた巡洋艦「筑紫」で初めて実戦に参加し、部下を死なせてしまい現実の惨状に衝撃を受けるのだった。そして、帰還した真之 は、東郷平八郎(渡哲也)と語る機会を得て・・・。
明治28年(1895年)9月、真之(本木雅弘)は「筑紫」が呉に帰還したのを機に、松山に子規(香川照之)を見舞った。その頃、子規は大学時代からの友人である夏目金之助(後の漱石・小澤征悦)が松山中学の英語教師として赴任しており下宿をともにしていた。帰途、真之が律(菅野美穂)に子規の病状を尋ねると、自分が必ず治してみせると律は気丈に答えるのだった。 やがて、帰京することになった子規は、途中、大和路を散策。句に「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。 明治30年6月、海軍の若手将校に海外留学の話が持ち上がる。真之はヨーロッパの大国への留学よりも、敢えて新興国アメリカへの留学を決意。真之の親友・広瀬武夫(藤本隆宏)は将来の日露の衝突を予見し、ロシアへの留学を希望する。出発を前に見舞いにきた真之に、子規は命がけで俳句を作ると決意を語る。 留学中、真之は世界的に著名な海軍の戦術家アルフレッド・マハン(ジュリアン・グローバー)に教えを乞い、勃発したアメリカ・スペイン戦争では観戦武官となる機会を得た。その報告書は日本の海軍史上比類なきものといわれている。 一方、広瀬はロシアで諜報活動の役むきも果たしていた。そんな中、海軍大佐の娘アリアズナ(マリーナ・アレクサンドロワ)と知り合い、見事なダンスを披露して喝采を浴びる。 真之はアメリカで新興国の勢いを感じ、伝統にとらわれない合理的な戦術に目を見張ることになる。また、駐米公使の小村寿太郎(竹中直人)から日英同盟の構想をきかされるとともに、英国駐在武官を内示される。 明治33年、(1900年)1月、真之は英
明治33年(1900)5月、英国ポーツマス港。日本への回航を待つ戦 艦・朝日を真之(本木雅弘)と広瀬武夫(藤本隆宏)は興奮した面持ちで見つ めていた。さらに、ロンドン・王立海軍大学を視察。 一方、清国では義和団が蜂起し、好古(阿部寛)は連合国軍として騎兵を率 いて出征。ロシア兵たちの乱暴狼藉ぶりを目の当たりにする。 帰国した真之は、律(菅野美穂)に看病され続ける子規(香川照之)を見舞 い、その革新精神のすさまじさに驚くのだった。 その頃、最早ロシアとの衝突は免れないと考えた日本は、イギリスとの同盟 を模索する。アジアにおけるロシアの勢力拡大を望まないイギリスは、明治3 5年日本との間に日英同盟を結ぶ。巨大な時代のうねりが、小さな島国の若者 たちを飲み込もうとしていた。
明治36年(1903)7月、真之(本木雅弘)は稲生季子(石原さとみ)と結婚。その新婚家庭に律(菅野美穂)が子規の形見分けの品を持って訪ねてくる。律は季子ともすぐ打ち解け、真之の幼いころのことを聞かせるのだった。 時局は日本とロシアの対立が避けがたいものとなり、海軍は連合艦隊を編成。海軍大臣・山本権兵衛(石坂浩二)は司令長官に大方の予想を裏切り、東郷平八郎(渡哲也)を任命する。真之は東郷から連合艦隊の作戦参謀を命じられ、日本海軍の命運の一端を担うことになる。旗艦「三笠」に乗り込みを前に、真之は季子とともに母・貞(竹下景子)のいる好古(阿部寛)・多美(松たか子)夫婦の家を訪れ、秋山家家族そろってのひと時を過ごす。 一方、ロシア国内では、児玉源太郎(高橋英樹)の命により陸軍の明石元二郎(塚本晋也)が革命勢力を扇動する諜報活動にあたっていた。外務大臣・小村寿太郎(竹中直人)を中心にロシアとの戦争を回避すべく交渉を続けていたが、政府は明治37年2月ついに開戦を決意
満州で戦う日本軍の生命線は、日本海での制海権確保であった。明治37年(1904)2月6日、東郷平八郎(渡哲也)を司令長官とする連合艦隊はロシアの旅順艦隊を撃滅すべく、佐世保港から出撃。ところが、ロシア艦隊は旅順港に閉じこもったまま出てこない。港は鉄壁の砲台群で守られており、連合艦隊は入りこむことはできない。策に窮した連合艦隊は旅順港の入り口に貨物船を沈め、ロシア艦隊を港内に閉じこめてしまうという奇策、閉塞作戦をとることに決した。真之(本木雅弘)は、出撃する海軍兵学校以来の親友広瀬武夫(藤本隆宏)からアリアズナ(マリーナ・アレクサンドロワ)への手紙を託される。銃弾が降り注ぐ中を脱出する寸前、広瀬は、部下の杉野がいないことに気づく。必死に船内を探すが、やむなくあきらめ、ボートに乗り込んだのだったが――。閉塞作戦に失敗した連合艦隊には暗雲が漂っていた。真之は広瀬の死を悲しむ間もなく、新たな作戦の立案を迫られることになるのだった。 ―第2部・完―
1904(明治37)年、日露戦争開戦。日銀副総裁の高橋是清(西田敏行)は日露戦争の戦費調達に奔走するが、世界はロシア有利と見ていたため日本に融資する相手を探すのは困難だった。 満州軍総司令官の大山巌(米倉斉加年)と総参謀長・児玉源太郎(高橋英樹)が、東郷平八郎(渡哲也)率いる連合艦隊の旗艦「三笠」に集結。陸海軍首脳による協同作戦会議が開かれる。海軍は、旅順港を陸から攻撃してロシア艦隊を追い出してほしいと陸軍に要請。真之(本木雅弘)は、旅順西北の二〇三高地を占領してそこに観測点を置き、ロシア艦隊を砲撃すべきと主張する。しかし陸軍は旅順要塞攻略を重視し、乃木希典(柄本明)が指揮する第三軍が総攻撃にあたる。 7月下旬、陸軍の動きに反応したロシア艦隊が旅順港から姿を現した。連合艦隊はかねての作戦計画に従い攻撃を開始するが、ロシア艦隊は再び旅順港に逃げ戻り、黄海海戦は失敗に終わる。 8月19日、第一回旅順総攻撃が始まり、要塞の正面突破を敢行するが、旅順要塞はベトンで固められた近代要塞になっていた。日本軍は要塞の鉄壁に傷一つ負わせることもできず、6日間で1万6000人の死傷者を出す壮絶な敗北を喫する。その報に接した真之は、第三軍は作戦目的をわかっていないと激し、直談判に赴くと息巻いて参謀長の島村(舘ひろし)に冷静になれと諭される。 遼陽での会戦が迫るなか、好古(阿部寛)の騎兵団は敵情捜索を行い、クロパトキン(セルゲイ・パールシン)率いるロシア陸軍が大軍を集結させていると報告する。ロシア軍の兵力23万に対して日本軍は14万。砲弾が足りない日本軍は遼
第三軍は、三度目の旅順要塞総攻撃を予定。各師団から選抜した三千百余人の白襷(だすき)隊による一大決死隊が突撃を開始する。しかし、突撃開始から3時間で全線にわたって攻撃は頓挫、闇に乗じて敵の鉄条網まで迫った一団も機関銃火を浴び、ついに白襷隊壊滅の報が第三軍司令部に届く。乃木(柄本明)はもはや正面攻撃は無理と判断し、二〇三高地を全力で落とすと宣言する。そして、第一師団五連隊が敵の猛攻を受けながら山頂への突撃を試みるが、一度は占領した頂上は再び奪取されてしまう。 総攻撃の開始から6日目、連合艦隊・三笠の艦内では、そろそろ攻撃中止命令が出るころだとの声が上がる。その声に真之(本木雅弘)は、4万5万の将兵が犠牲になっても二〇三高地はおとさなくてはいけないと激する。 万策尽き果てた乃木の苦境を見かねた満州軍総参謀長・児玉源太郎(高橋英樹)は、旅順で乃木の代わりに二〇三高地をおとすことを決意。大山(米倉斉加年)からの秘密命令を携え旅順にやってくる。乃木と二人きりで話し合った児玉は、一時的に第三軍の指揮を執ることを乃木に了承させ、直ちに重砲隊の移動や陣地転換など攻撃計画を修正。集中配置された重砲が二〇三高地に向けて一斉砲撃を開始する。
後顧の憂いを断った連合艦隊はバルチック艦隊との決戦に備える。宮中で明治天皇(尾上菊之助)に拝謁した東郷(渡哲也)は、バルチック艦隊との戦いに勝利すると断言。同席した海軍大臣の山本権兵衛(石坂浩二)を驚かせる。その後、久しぶりに東京・青山の自宅へ戻った真之(本木雅弘)は、母・貞(竹下景子)との再会を喜ぶ。 1905(明治38)年2月20日、連合艦隊が佐世保から出港する。同日、満州軍総司令部に各軍司令官が招集され、クロパトキン率いるロシア陸軍との一大決戦を前に一堂に会する。奉天会戦は戦線100キロに、ロシア側の兵力32万、砲の概数1200門、日本の野戦軍の兵力25万、砲990門が展開する世界戦史上空前の大会戦になった。 激闘が続くなか、好古(阿部寛)は鉄道破壊の命を受け、騎兵団3千を率いて奉天北方に向かう。ロシア側はこれを大量の騎兵団が北進してきたと誤認。クロパトキンは急いで全軍を奉天から退却させる。 4月、バルチック艦隊がシンガポール沖に達する。そこからウラジオストクまでの航路は二通り。対馬海峡を通る日本海コースと、太平洋を回って津軽海峡や宗谷海峡を経る公算も大きい。日本は迎撃する艦隊を1セットしか持たないため、太平洋と日本海の2か所で待ち伏せすることはできない。しかし、この艦隊を全滅させなければ、日本は敗北する。 真之は対馬海峡を通ると想定して哨戒計画を立案するが、バルチック艦隊の行方は杳(よう)として知れない。なかなか対馬に現れないバルチック艦隊に業を煮やした真之は、東郷に艦隊の移動を進言する。しかし「敵は対馬に来る」という東郷のひと言で移動
1905(明治38)年5月27日、巨大な艦影が1艦また1艦と三笠の前に姿を現し、いよいよ連合艦隊とバルチック艦隊の戦闘が始まった。連合艦隊は、世界の海軍戦術の常識を打ち破る異様な陣形をとる。真之(本木雅弘)が水軍の戦術案からつむぎ出した、艦隊を敵前でターンさせるという捨て身の戦法だ。 東郷(渡哲也)は、「まず敵の将船を破る」という真之の戦術原則のとおりに艦隊を運用。三笠の砲弾が目標である敵の旗艦「スワロフ」に命中した。2日間にわたる七段構えの攻撃を受けたロシア艦隊は、主力艦をことごとく撃沈、自沈、捕獲され、ついに白旗を掲げて降伏。連合艦隊は、奇跡といわれた歴史的勝利を収める。 そのころ、満州の最前線にいた好古(阿部寛)のもとに母・貞(竹下景子)の死を伝える電報が届く。帰国した真之は、この戦争で敵味方ともに数多くの犠牲者を出したことに耐えられず、その苦しい胸中を妻・季子(石原さとみ)に打ち明けるのだった。 9月5日、ポーツマス日露講和条約調印。日本の国力は限界に来ていて、ロシアと講和を結んだとはいえ実状はかろうじて引き分けたというようなものだった。しかし、国内では新聞が「弱腰の講和」と政府を批判し、不満をもつ民衆が日比谷焼き打ち事件を起こした。 12月21日、各艦の司令官、艦長らが旗艦「朝日」に来艦。連合艦隊の解散式が行われ、東郷が真之の書いた「連合艦隊解散の辞」を読み上げる。 戦争終結からしばらく経ったある日、好古と真之が久しぶりに顔を合わせる。松山の海に船を浮かべ、兄弟で釣りをするふたりの胸に去来する思いとは……。 真之は大正7(1