あくまでも和議を望む家康の意に反して、はやる東軍の諸将は我先にと大坂へ攻め入り、慶長19年(1614)12月、大坂冬の陣の火ぶたが切られました。城外で迎え撃とうとする秀頼の軍勢は、たちまち城内に押し戻され、ろう城戦へと移ります。開戦1か月後、東軍の大砲攻撃に戦意が衰えた西軍は、大坂城の堀の埋め立てと城構えの縮小を条件に和議に応じました。しかし、その後も浪人たちは城を去らず、不穏な動きは消えません。