大坂城は本丸を残して丸裸同然になり、西軍の諸将は不満を募らせていました。戦に将来をかける浪人たちは再び騒ぎ出します。慶長20年(1615)4月、再出陣に備えて名古屋城に入った家康を、大坂方の中心人物・織田有楽斎(うらくさい)が訪ねていました。有楽斎は大坂方の必死の覚悟を伝え、心してかかるようにと直言します。家康が講じた秀頼、淀君、千姫の救出もされぬまま、ついに大坂夏の陣の砲火がとどろきました。