文禄元年(1592)、秀吉が肥前に築城した名護屋城に到着したとき、朝鮮半島の戦局は一転していました。緒戦は優勢でしたが、長引くにつれて不利な報告ばかり。秀吉は甥(おい)の秀次に関白職を譲り、太閤(たいこう)となっていましたが、野望はおさまらず自ら先頭に立って全軍を指揮すると言い出します。老いの妄執か、秀吉は狂い始めていました。しかし、石田三成が朝鮮半島に渡り、続行不利という報告を持ち帰ります。