慶長15年(1610)、この年70歳を迎えた家康の懸案は、秀頼の成長を見届け、大坂方に根強く残る徳川への疑念を晴らすことでした。翌年、家康は上洛して秀頼と対面し、上機嫌で駿府へ引き揚げましたが、待っていたのはまたしても騒動の火種。金山奉行の大久保長安(ながやす)が家康の六男・松平忠輝の将軍擁立を企てているというのです。その長安が急死し、金銀の不正隠匿や、忠輝擁立の連判状の存在が明るみに出ました。