1968年3月16日に週間ランキング第1位、年間ランキング6位を獲得(ビルボード誌)。
ロック時代(1955年7月9日以降)では初めて、アーティストの死後に発表されてチャート1位を獲得したシングルとなった。
1967年カリフォルニア州サウサリートのボートハウスに滞在していたオーティスは、プロデューサーだったスティーヴ・クロッパーと共にこの曲を作り上げ、12月初めにメンフィスのスタックス・レコードのスタジオでこの曲のレコーディングを行った。録音終了後、オーティスは大ヒットになると周囲に話していたという。
しかしその数日後の12月10日、オーティスの自家用飛行機が、ウィスコンシン州マディソンに向かう途中マノマ湖に墜落した。オーティスと、バックバンドバーケイズのメンバー、スタッフ、パイロットの4人が死亡。
曲の完成を聴かぬまま、帰らぬ人となってしまったオーティス・レディングだったが、彼の予感通り、最大のヒット曲となった。