<文久3年(1863)~元治元年(1864)> ・国是会議を開く ・一橋慶喜が"御所の警備責任者"になる ・箱館に五稜郭が完成 ・池田屋事件発生 ・禁門の変(蛤御門の変)勃発 <内容> 朝廷内で影響力を増していた強硬な尊王攘夷派の長州藩が、八月十八日の政変で、公武合体派の薩摩藩・島津久光や会津藩・松平容保により京を追放されました。 これにより、公武合体が進むのかと思いきや、政変から3か月後、幕府の徳川慶喜や島津久光ら公武合体派の武家が分裂してしまいます。一体何が起こったのでしょうか。公武合体派が分裂すると、その隙をつくように長州藩が京で活動を再開します。そして、一部の過激派が政変の報復テロを開始。さらに、“長州藩士らが孝明天皇を長州に奪い去ろうとしている”との噂も流れます。そこで動いたのが新選組です。 近藤勇、土方歳三らが、旅籠の池田屋に集まる長州藩士ら尊王攘夷派を襲撃。数名の長州藩士を討ち、10名から20数名を捕縛します。これに激怒した長州藩が、京への出兵を決断。武家が御所を攻撃するという前代未聞の事件、“禁門の変”へと発展するのです…。