時は徳川五代将軍・綱吉の治世。 絢爛豪華な元禄文化が栄えた一方で、生類憐れみの令や赤穂浪士事件など、世の中は混乱していた。 紀州家の二代藩主の四男として生まれた吉宗は相次ぐ兄や父の死により、宝永2年(1705)、藩主となる。
紀州藩主吉宗は、質素倹約を旨とし藩政改革を推進した。 五代将軍綱吉の死後、六代・七代将軍がわずか6年の間に没し、将軍家、御三家、大奥や老中まで巻き込み、後継者争いが。 その事態を制した吉宗は八代将軍に就任。幕政の再建に着手する。
吉宗は享保の改革を推進するが、大飢饉やそれに発する打ちこわしなどや、長男・家重の所行に頭を痛めていた。 また、尾張藩主の徳川宗春は、吉宗の質素倹約を旨とする政治方針にことごとく反発し、藩内で華美な開放政策を実施するのだった。