1890(明治23)年に教育勅語が発表されると、覚馬(西島秀俊)は天皇への忠義を課す一節に懸念を抱いていた。 そんな覚馬のもとに東京から健次郎(勝地涼)が訪ねてきた。健次郎は兄・浩(玉山鉄二)に代わって川崎尚之助(長谷川博己)の会津戦記を仕上げるために、京都でどのように薩長と戦っていたかを覚馬に詳しい話を聞く。しかし、覚馬が薩長にも勤王の志はあったと語ったことに、健次郎も八重(綾瀬はるか)も激しく反論する。 その後、同志社の卒業生たちに不戦の精神を説いた覚馬は、荷を下ろし、安堵(あんど)したかのように病床に就いた。