豊臣家滅亡後も争乱の種は尽きません。家康の六男で伊達政宗の婿・忠輝の存在です。政宗は天下取りの野望を抱き、忠輝に夢を託していました。家康はわが子への私情を断ち、大坂夏の陣への遅参や将軍家家臣の無礼討ちなどを名目に、忠輝に対して永久対面禁止と妻・五郎八姫との離別を命じます。翌元和2年(1616)、家康は病に伏しますが、最後まで世継ぎなどの指示を与え、泰平への悲願を貫いて、75年の生涯を閉じました。