慶長5年(1600)、西軍の毛利輝元は秀頼を擁して諸将を集め、家康攻略を決定します。伏見城留守居の鳥居元忠に城の明け渡しを求めますが、元忠は拒否して討ち死。家康は直ちに会津からとって返しながら、江戸から西へは動きません。清洲に集結した東軍は不審に思いますが、家臣ではない諸将に指図はできぬという家康の配慮と知って、一気に岐阜城を攻め落とします。ついに家康は重い腰を上げ、関ヶ原決戦の時が迫りました。