幼少期より聡明(そうめい)で、兄たちが体が弱かったため、若くして田安家の後継者、また、十代将軍・家治の後継と目されていた。陸奥白河藩の養子にむかえられ、幕政の中心から遠のくも、田沼意次の失脚後は十一代将軍・家斉の命で老中となり、寛政の改革を行う。寛政の改革では、風紀の取り締まりから蔦屋重三郎に厳しい処分を科すこととなる。