<ラインナップ> ●60代・醍醐天皇が菅原道真を大宰府に左遷 ●その菅原道真の死後から、皇族や貴族が相次いで死去。 祟りと恐れた朝廷は、「北野天満宮」建立 ●「古今和歌集」編さんされ、平仮名が利用されるように。 <内容> 今回は800年代終わりから900年代初頭、稀代の秀才と言われる菅原道真と宇多天皇の政治を中心に見ていく。891年、絶大な権力を誇った藤原基経が亡くなると、宇多天皇は、天皇自ら政治を行う天皇親政を目指す。その時抜擢したのが、中流貴族で学者でもあった菅原道真だった。菅原道真の業績として知られる遣唐使派遣停止の提言。その背景にあった意外な朝廷内の陰謀を紹介。宇多天皇が子供の醍醐天皇に譲位すると、道真は大宰府に左遷される。その裏にあった藤原時平(基経の子)の策略とは。死後、皇族や貴族に災いが重なると、道真の怨霊の祟りとして人々は恐れた。怨霊として恐れられた道真だが、やがて学問の神として日本人に親しまれるようになる。なぜ道真は学問の神になったのか、その経緯を紹介。