台湾放送協会から比島放送管理局に派遣され、米良総務部長の下で庶務・経理業務を続けた。米良が率いるマニラ局残留班は米軍マニラ突入の直前まで放送を続けた後、マニラ東方の山岳陣地に逃れたが、米軍の攻撃や飢えやマラリアで次々と倒れ、マニラ残留班17名のうち生還したのは青山だけだった。